Reproduce the Word

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テサロニケ人への手紙第二から「携挙」を考える

ここまでずっと「携挙(空中再臨)」のことを考えてきています。

 

私もそうであったように、携挙があると教えられ、その前提のもとに聖書を読むときに、携挙のことが語られているように読める箇所があります。

 

前回前々回の記事で紹介したように、その代表的な箇所の一つは、テサロニケ人への手紙第一の4章後半です。

 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(16,17節)

 

ここには、クリスチャンたちが"天(heaven)"に引き上げられるとは書かれていません。そうではなく、空中(sky)"に引き上げられると書いてあります

 

なので、この箇所が「クリスチャンが"天"に携挙される」ことを直接的に教えているとするには無理があります。しかし、この箇所は携挙の聖書的根拠とされる代表的な箇所です。また、この箇所をもとに携挙を信じているクリスチャンが少なからずいると思います。

  

クリスチャンは、ベレヤの信徒のように、教えられたことを鵜呑みにするのではなく、教えられた解釈は正しいものなのか、それは著者がそのテキストから本当に伝えたいことなのかを自分自身で探究すべきです。

 

ここ(ベレヤ)のユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、そのとおりかどうか毎日、聖書を調べた。(使徒の働き17章11節, 新共同訳)

 

私たちには、ベレヤの信徒のようなみことばに対する聖なる素直さ聖なる熱心さが必要です。教師や教えをさばくような思いではなく、開かれた思いをもってみことばの教えに耳を傾け、真摯にみことばを学びます。そして、教えられたことを鵜呑みにせず、自分自身でも聖書を調べ、その聖句の意味を吟味します("なる懐疑心"が必要だと言えるでしょうか)。

 

携挙メガネを取り、「教会は患難期を通らずに天に携挙される」という教えが本当にそのとおりかどうかを考えるときに、どんなものが見えてくるでしょうか?

 

本当に、携挙は単なる神学的な推論、仮定なのではなく、みことばが明確に語っている真理なのでしょうか?

 

終末論は様々な考えがあり、簡単には終末に関する神のご計画をみことばから理解することはできません。なので、はっきりとみことばが語ってるという確信がない限り、何が正しくて、何が間違ってるかを性急に判断すべきではありません。そのため、学ぶ側には謙遜さが必要です。

 

ちなみに私は、教会が天に携挙されると信じてはいませんが、"絶対"に教会は天に携挙されないとも考えていません。

 

多くの人がそう考えるように、私もその可能性はあると考えています。しかし、そのことを聖書にクリアに見ることが今のところできません。むしろ、そうでない根拠の方がクリアに見れるので、携挙はない"だろう"と今の時点では考えています。

 

いずれにしろ、ある前提をもってみことばを理解するのではなく、みことばが教えていることを純粋に求めていきたいです。

 

さて、前置きが長くなりましたが、今回はテサロニケ人への手紙第二の前半を見ながら、パウロの終末論がどのようなものであったのかを理解したいと思います。※1

 

パウロ主の日」がどのように来るかを説明しています。

 

霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。...その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。(2章2,3,8,9節)

 

パウロは、テサロニケ人への手紙第一でも「主の日」について説明しました。

 

主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。(テサロニケ人への手紙第一5章1節)

 

どちらの箇所でも「主の日」は、キリストが再臨される前の世の終わりの時を意味しています。その時、この世は患難の時を迎えます。

 

テサロニケ教会の人々は、「主の日がすでに来た」という言葉を耳にしていました。そして、テサロニケの教会はその言葉に惑わされ、落ち着きを失っていました

 

霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。(テサロニケ人への手紙第二2章2節)

 

パウロは、そんなテサロニケの人々に「だまされないようにしなさい」と語ります。

 

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。(2章3節)

 

ここでだまされてはいけない理由として語られているのは「不法の人」と呼ばれる、ある一人の人物についてです。

 

「不法の人が現れなければ、主の日も来ない」と、パウロは言っています。

 

もし患難期前携挙説を信じているクリスチャンに「主の日はすでに来ました!」と言えば、彼らこう言うでしょう。「いや主の日はまだ来ていません。なぜなら、私たち(教会)が天に挙げられていないからです」と。

 

パウロも携挙を信じていたならば、患難期前携挙説に立つ人たちと同じようにこう言ったはずです。「"主の日がすでに来た"と言われても、あなたがたは心を騒がせる必要はありません。主の日はまだ来ていないからです。あなたがたはまだここにいて、携挙はまだ来ていないのですから」と。

 

しかし、パウロはそのようには言いませんでした。

  

主の日がまだ来てないことの根拠として、パウロ「教会の携挙」ではなく「不法の人」のことを語ります

 

パウロが患難期前携挙を考えていなかったように、テサロニケの人々も考えていませんでした。

 

もしテサロニケの人々が「主の日が来る前に教会は携挙される」と信じていたのだとしたら(パウロからテサロニケ人への手紙第一4章16,17節で患難期前の携挙を教えられていたのだとしたら)、彼らは携挙が来る前に主の日が到来する事はないと知っていました。そして「主の日がすでに来た」と言われても騙されるはずがありませんでした。

 

しかし、実際にはテサロニケの人々は困惑したのです。

 

このことから、彼らは患難期前携挙説に立つクリスチャンではなかったと言えると思います(だからと言って、患難期"中"に携挙が起こると信じていたということを言いたいわけではありません)。

 

パウロは「不法の人が来てから主の日が来る」ことを語った後、続けて不法の人に関して詳しく語ります

 

不法の人は、

① すべて神と呼ばれるもの、また、礼拝されるものに反抗する。

② それらの上に自分を高く上げる。

③ 神の宮の中に座を設ける。

④ 自分こそ神であると宣言する。

⑤ 定められた時に現れる。

⑥ 主の御口の息、来臨の輝きをもって殺され、滅ぼされる。

⑦ サタンの働きによって到来する。

⑧ あらゆる偽りの力、印、不思議を行う。

⑨ 滅びる人たちに対してあらゆる悪の欺きを行う。

 

パウロは、不法の人がどのような者で、どのようなことをし、どのようなことを語り、その背後にどんな働きがあるのかテサロニケの人々に教えました。

 

どうしてここまで詳しく語ったのでしょうか?

 

仮に教会が不法の人が到来する前に(患難期前に)天に携挙されるのであれば、この情報はテサロニケのクリスチャンたちにとってどのような意味を持ったでしょうか?

 

彼らが見ないであろう者の正体を、パウロが詳しく語る必要はあったでしょうか? もし患難期前に携挙されるのであれば、不法の人の存在は彼らには直接関係のないことです。

 

しかしパウロは、主の日の到来のしるしとなる"不法の人"がどのような者で、その者を見抜くことができるような情報を前もってテサロニケの人々に教えたのです。

 

ここにパウロのどのような意図があるでしょうか?

 

教会は携挙されることなく患難期を迎え、不法の人の到来を見ることになる。そして、パウロが伝えてくれた情報をもとに、クリスチャンは誰が不法の人であるのかを特定し、主の日が来たことを判断します。そのために、パウロは不法の人について詳しく教えたのでしょう。

 

パウロが教えていることから理解できる彼の終末論は、少なくとも患難期前携挙説ではないと言えるのではないでしょうか。

 

また、ここで語られている内容には、患難期"中"に携挙が起こることも触れられていません。パウロが書いた手紙の中で、おそらく最も主の日について詳しく説明されてる中で、携挙のことは出てこないのです。もし彼が再臨は二回あり、クリスチャンは患難期中に携挙されると理解してたのであれば、落ち着きを失い、心を騒がせてるテサロニケの人々に対して、その携挙の恵み、希望を語ったのではないかと思います。

 

確かに、再臨は二回ある、つまり、携挙(空中再臨)がある、と論理立てて神学的に教えられると、それが正しいかのように聞こえます。

 

しかし私たちは、ベレヤの信徒のように、教えられたことを自分自身でしっかりと吟味し、みことばがはっきりと教えていることに堅く立ち、それを守るべきです。

 

みことばが教えている終末論を理解する時に、私たちはますます主の再臨を待ち望んで、喜びをもってこの地上で歩みを進めるようになるでしょう。

 

そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。(テサロニケ人への手紙第二2章15節)

 

※1: この記事の内容は、John Piper氏の説教を参考にしています。