"Happy"なクリスチャンでいたい。
天の神様は、クリスチャンにとって「天のお父さん」です。
私たちにとって、その天のお父さんは、具体的にどのようなお父さんでしょうか? 人間に例えるならば、どんなイメージの父親でしょうか?
同じ信仰を持ったクリスチャンの間でも、そのイメージは異なると思います。
そして、その天の父のイメージは、自分の肉の父、自分を実際に育ててくれたお父さんとの関係から形作られている部分があると思います。
私の場合、クリスチャンになって、いくら神様について学んでも...
・いつも寄り添ってくれる。
・いつでも子どもの思いを聞いてくれる。
・いつも子どものことを笑顔で見ていてくれる
というような、天のお父さん像を持つことが難しかったのを覚えています。
いつもチェックされてるような感覚を覚え、ちゃんとしていなきゃいけないと思っていました。
でも、聖書を学ぶにつれて、徐々に徐々に、実際の父のイメージから脱し、聖書が語る天の父のイメージに近づいていきました。
その一つは、このようなものです。
私の天のお父さんは、いつも難しい顔をして子どもを見ているのではなく、子どもに対して笑顔で接してくれるハッピーなお父さんです。
テモテの手紙第一1章11節にはこのように書いてあります。
祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。
ここに「祝福に満ちた神」とあります。
この「祝福に満ちた」という形容詞は、ギリシャ語で"makarios "という言葉で、新約聖書で50回登場します。
代表的な箇所だと山上の垂訓で使われていて、主に「幸い」と訳されるこの言葉は、英語では「blessed」と主に訳されています。
そして、"happy"または"happier"とも訳されています。
私たちの神は、幸い、幸福、ハッピーな神です。
私たちが信じた福音は、栄光の福音です。
そして、その栄光の福音は、祝福に満ちた、幸いでハッピーな神が与えてくださったものです。
神様は、笑顔で、幸いと喜びに満ちながら、その栄光の福音を私たちに授けてくださいます。だからこそ、この福音は、栄光の福音なのでしょう。
もし、キリストを信じた私たちに対して、神様が未だに不満を持っておられ、さばくような心を持っておられるのならば、パウロはその福音を「栄光の福音」とは言わなかったと思います。
私たちはキリストのゆえに神のものとされ、神の子とされました。
御父は、御子に「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と言われたように、ご自身の子である私たちにも同じ言葉を語りかけてくださるでしょう。
今、神様は私に対して笑顔を向けてくださっている。
キリストの完全な購いのゆえに、御父はキリストにある私を喜んでくださっている。
そのように思うようになって、私の心は本当に晴れやかになりました。
もはや厳しい顔で私を見ている天のお父さん像は消え去りました。
幸せと笑顔に満ちた神様と共に、日々を歩めるのは何と幸いなことでしょうか。
願わくは、この素晴らしい神が私に幸せと笑顔に満ちて接してくださるように、私も周りの人に対して明るく笑顔で接することができますように。