テサロニケ人への手紙第一から「携挙」を考える ⑵
前回の記事では、テサロニケ人への手紙第一4章17節の「会う(ギリシャ語で"apantēsis")」という言葉が、原語でどのように他の聖書箇所で使われているのかを確認しました。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(テサロニケ人への手紙第一4章16,17節, 下線は筆者による)
John Piper氏が説明するように、この箇所には空中で主と会った後にどうなったのかは記されていませんが、"apantēsis"という言葉の聖書での使用例から「空中で主と会った後に"地上に戻る"」と考えるのが適切であると考えられます。
ちなみに、このapantēsisというギリシャ語は、ギリシャ語訳の七十人訳聖書(LXX)では、ヨナタンの息子メフィボシェテがダビデ王を出迎えるときに使われています。
彼が王を迎えにエルサレムから来たとき、王は彼に言った。「メフィボシェテよ。あなたはなぜ、私といっしょに来なかったのか。」(サムエル記第二19章25節)
メフィボシェテが自分の王を出迎えたように、古代において、王や皇帝、将軍や他国の高官などの重要人物を迎える時には、"出"迎えることが尊敬を表すことの習わしだったそうです。
例えば、ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、アグリッパ1世(使徒の働き12章に出てくるヘロデ王)がローマ総督を迎えるために、町から1.5kmほど離れたところまで出て行って敬意を表したことを記録しています。※1
ローマ帝国においては、将軍と兵士が凱旋する際、民は彼らを出迎えました。凱旋は次のようなプロセスを踏みました。
① 軍隊は街に軍事的遠征から戻る時、すぐに入場するのではなく、街から少し離れたところで一度待機しました。そして、メッセンジャーを街に遣わし、元老院に勝利の報告をします。そしてその報告を受けた元老院は凱旋式の準備をします。
② その後、待機していた凱旋将軍と兵士たちが街に向けて行進を始めますが、その時にラッパを吹き鳴らすのです。
③ 街の人々は、そのラッパの音を聞いて「将軍と軍隊がもうすぐやって戻って来る!」ことを知るのです。
④ その時、ローマ市民は街の外に出て行き、凱旋将軍と兵士たちを迎えます。つまり、将軍と兵士と市民が一緒に街に入って行くのです。
教会が空中に引き挙げられるのが王なるキリストを出迎えるためなのだとしたら、それはこのイメージとまさに合致します。※2
聖書の中にも、当時のそのような習慣を見ることができます。
ヨハネの福音書12章13節には、イエスさまがエルサレムに入場される際に、人々が「しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った」(下線は筆者による)とあります。イスラエルの王が来られるとき、その民は王を迎えるために出て行きました。
それではイエス・キリストが王の王としてこの地に再び来られるとき、その民である私たちクリスチャンはキリストを出迎えるのでしょうか?
パウロ、また、彼の教えを直接受けたクリスチャンは、そのことをどのように考えていたのでしょうか?
今回も、テサロニケ人への手紙第一4章から「再臨」や「携挙」のことを考えていきたいと思います。
そもそも、なぜパウロは4章の後半でクリスチャンが空中に引き挙げられることに関して語ったのでしょうか?
それは決して、テサロニケのクリスチャンたちが「携挙(空中再臨)」に関して疑問に思い、パウロに質問したからではありません。
それは、彼らが「眠った人々」のことを心配していたからです。
その冒頭にはこのように書いてあります。
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。(テサロニケ人への手紙第一 4章13節, 下線と強調は筆者による)
眠った人々とは、どんな人たちのことを表すでしょうか?
それは「死んだ人々」のことです。※3
パウロはやがてよみがえる人々、つまり、キリストを信じて死んだ人々を「眠った人々」と呼んでいるのです。
あえて「眠る」という言葉を使うことで、キリストにある死者が、キリストと同じように、やがて新しい身体とともに目覚め、復活することを教えようとしているのです。
だからパウロはその次の節で、キリストの復活を語ります
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(テサロニケ人への手紙第一 4章14節)
キリストが復活したことを信じる信仰に基づいて、私たちはキリストにある死者も復活することを信じます。そして神は、やがてキリストと一緒に眠った人々を連れて来られるのです。
ここからさらにパウロは、眠った人々がどのように主の再臨の際に復活の恵みに預かるのかを説明します。
それは「眠った人々」についての理解不足から生まれる、テサロニケの人たちの心配を取り除き、彼らに希望と慰めを与えるためです。
なぜなら、テサロニケの人々は、眠った人々のことで悲しみに沈みそうになっていたからです。
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。(テサロニケ人への手紙第一 4章13節, 下線は筆者による)
なぜ彼らは悲しみに沈みそうになっていたのでしょうか?
それは、眠った人々が主が再臨される時にどうなるのか分からなかったからです。パウロから再臨についての教えを受けていましたが、死んでしまった者がどうなるのかまでは知らなかったのです。
パウロがテサロニケに滞在したのは数週間だけだったと考えられます。それは、パウロの伝道旅行について記録している使徒の働きに「三回の安息日にわたって」テサロニケでユダヤ人たちと論じ合い、その後、捕まえられそうになってベレヤに行ったと記されているからです。
彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。(使徒の働き17章1,2節, 下線と強調は筆者による)
短い滞在期間の中で、パウロはキリストの再臨について説明していました。終末のことを彼らに語っていたのです。
ただ、もちろん十分な時間がないので、テサロニケのクリスチャンたちは再臨についてよく分かっていたわけではありませんでした。
彼らが分からなかったのは、再臨が来る前に死んでしまった人がどうなるかです。
彼らは生きてる自分たちに関して心配していたのではありません。主の再臨時に生きてるクリスチャンはに復活の恵みに確かに預かることができると知っていたのです。
おそらくそれは、パウロが"自分が生きてる時に再臨が来る"かのように語るからだと思います。
パウロが自分自身は生きたキリストの再臨を経験すると考えていたであろうことは、以下の箇所から分かります。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。(テサロニケ人への手紙第一4章15節)
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(テサロニケ人への手紙第一4章17節a)
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(コリント人への手紙第一15章51,52節)
パウロ自身が再臨の時に生き残っていて、自分たちは(よみがえるのではなく)変えられると考えていたように、彼の教えを受けたテサロニケの人々も再臨が自分たちが生きてる時に来ると考えていたのだと思います。そして、生きてる自分たちが再臨時に復活の恵みを受けることはよく分かっていたのです。
パウロから再臨を教えられた彼らは、再臨を待ち望み、そのキリストに対する望みによって苦難の中でも忍耐をもって歩んでいました。
私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(テサロニケ人への手紙第一 1章3節, 強調は筆者による)
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。(テサロニケ人への手紙第一 1章6節, 強調は筆者による)
しかしパウロが去ってから、そのような彼らの中に死んでしまう者たちが出てきたのです。つまり、主の再臨を生きては迎えずに、その前に死んでしまったのです。
テサロニケの人々が自分たちが生きてる間に、主の再臨を迎えるだろうと考えていた彼らにとっては大問題です!
パウロは「"生きてる"私たちがキリストの再臨の時に復活の恵みに預かり、御国が到来し、キリストと永遠に共にいるようになる」と話していたけれども、再臨前に死んでしまった場合はどうなるのだろう?
もしかしたら、彼らは再臨の場には居合わせず、復活の恵みにも預からないのではないか...。そんな不安が彼らの胸を襲い、信仰の兄弟姉妹に酷く困惑していたのだと思います。
そしてテサロニケの人々が、理解不足から来る悲しみに沈みそうになっているのを知ったパウロは、眠った人々が再臨時にどうなるのかを詳しく話すのです。
パウロが語ることのフォーカスは、再臨の時に「"生きてる"者たちがどうなるのか」ではなく「"眠った人々"がどうなるのか」です。キリストにある死者がよみがえることをはっきりとパウロは伝えたかったのです。
多くの人が、パウロはこの箇所で教会が天に挙げられること、つまり携挙のことを教えていると理解しますが、文脈から考えて、パウロが「携挙」という新しい?真理を教えたという風に考えることはできないでしょう。
死んでしまった人たちは再臨を逃すかもしれない、と心配していたテサロニケの人々に対し、パウロは「あなたがたが死んだ人々に優先する」ようなことはないと語ります。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。(4章15節, 下線は筆者による)
そして続けて、眠った人々が具体的にどのようになるのかを明らかにします。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(4章16, 17節)
この教えを受けたテサロニケの人々は、どれほど希望と慰めを受けたでしょうか!
愛に生きていたテサロニケの教会の人たちだからこそ、自分たちの兄弟姉妹が死んでしまったときに、悲しみ、その人たちが復活の恵みに預かれるのかどうかを心配して他のでしょう。
兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。(4章9節)
そんな愛する兄弟姉妹も、再臨の栄光と恵みに預かることができるのだから、パウロはお互いに慰め合いなさいと語ります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(4章18節)
テサロニケの教会の人々が慰め合うことができるのは「彼らが携挙の恵みに預かり、患難時代を通らなくて良いからだ」という話を聞いたことがありますが、本当にそうでしょうか?
ここでパウロが語ろうとしていることを通して考えると明らかに間違っていると思います。
その希望と慰めは、パウロが「携挙」について語ったから来るものではありません。
愛する眠った人がキリストの再臨時に復活することができるから、そして、みんなでいっしょに永遠に主とともにいることができる、慰め合うことができたのです。
私にも、すでに召された(眠った)人々がいますが、彼ら彼女たちと共に、主の再臨を迎えることができるのは、何という祝福でしょうか。楽しみで楽しみで仕方ありません。再臨される栄光の主を心から待ち望み、褒め称え、今日も明日も生きていきたいです。
※1: こちらの記事で紹介されています。
※2: R. C. Sproul氏が、ローマ帝国における凱旋式と、キリストの再臨時に教会が空中に引き挙げられることの関連性をこちらの動画で説明しています。
※3: ヨハネの福音書11章で、イエスさまは死んだラザロのことを「眠って」いると言います。
〜2020年6月24日に編集〜