Reproduce the Word

We don't just receive the Word, but we reproduce the Word.

人を赦さない心がもたらすものとは...

「怒りや恨みを持ち続けるべきでない」

 

クリスチャンとして、それが正しい事だとは知っていました。

 

聖書にはこのようにあります。

 

"だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。" ローマ人への手紙12章17-19節

 

しかし、怒りや恨み(赦さない心)を持ち続ける時、その人の将来がどうなるのかは知っていたようで、しっかりと頭の中には入っていませんでした。

 

聖書にはこのようにあります。

 

"もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。" マタイの福音書6章14,15節

 

人を赦さないなら、その人は神から赦されることがない...。

 

赦さない心は、永遠の死を招く心です。

 

赦さない思いは、自分を危険に陥れる思いです。

 

神様は、聖書を通して、何度も何度も、赦さない心を捨て、人を赦すように教えています。

 

エスさまは、その弟子たちにお語りになりました。

 

"そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」" マタイの福音書18章21節

 

つまり、私たちは、何度も何度も人を赦すのです。

 

この世の人たちが「どうしてそこまで?」と思ったとしても、私たちはその人の罪を赦すのです。

 

エスさまは、そのすぐ後で、ある一人の王のたとえ話を語られました。

 

その王の一人の家来が、王に負債を返せなかったため、嘆願し、自分の負債を免除してもらいました。しかし、その家来自身は、自分に負債のある者を赦さずに牢屋に投げ込みました。その後、王はそのことを知り、その家来を牢屋に入れます。

 

エスさまは、その最後でこうお語りになりました。

 

"あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたにこのようになさるのです。" マタイの福音書18章35

 

ここでも、イエスさまは人を赦さないなら、神から赦されないと語られました。

 

そして、その赦しは、表面的なもの、形だけのものではなく、心からの赦しです。

 

だからと言って、私たちは相手に何をしてもいいわけではありません。「みんな優しいから」「どうせ赦してもらえるから」と言って、罪を犯していいわけでは決してありません。

 

実は先程の王と家来の例え話は、教会内の罪の問題をどう処理するか(教会戒規)に関する話(18:15-20)のすぐ後でなされました。

 

教会の信徒が罪を犯し、そのことに対する取り扱いに応じない場合、その人はもはや信徒としてではなく、信仰を持たない者として扱われます。その罪は赦されないのです。そして、その罪は天でも赦されません。

 

地上で罪を犯し続ける者には、天で滅びが待っています。キリストと一体とされたキリスト者は、キリストの聖さを追い求めるものです。そうでない者には、滅びが待っているのです。

 

私たちは、赦さない罪から、解放されて、キリストのように人を赦す者に変わっていくでしょう。

 

しかし、「人を赦さない」ことはあまり問題とされないのではないでしょうか?

 

Desiring Godの設立者であるジョン・パイパー牧師は、神学校に通っていた時代に属していたスモールグループで、ある女性が母親を絶対に赦さないと語ったため、その女性にいくつかのみことばを示しながら、赦さないことの危険性と必要性についてはっきりと語りました。

 

まだ牧師にもなっていない頃から、一人の信徒として、他の信徒にはっきりと聖書に基づいて考えるならば「赦さなければならない」と語ったのです。彼は、いくら個人的な経験や感情が伴うことで、それがはっきりと理解できるものでなかったとしても、「それは仕方のないこと」とはしませんでした。

 

私たちは「赦したくない」という思いと闘わなければいけません。

 

その「人を赦そうとしない」意思・思いは、神の教え・御心・命令に反するもので「罪」です。それは神を、私たちのうちにいる聖霊を悲しませます。

 

私たちクリスチャンは、その兄弟姉妹が人を赦さないことを「その人の問題だから」「その人自身の過去や感情に関わる個人的なことだから」と関わらないようにしたり、軽く見たりしてはいけません。なぜなら、赦さない思いを持ち続ける事は永遠に関わる問題だからです。

 

本来、そのような事にも教会戒規が適用されるべきなのかもしれません。

 

私たちクリスチャンは、主から計り知れない負債を免除された者です。

 

私たちは主に、どれほどの負債があったでしょうか。

 

神の御子が、十字架にかかって死ななければいけないほどの負債です。

 

私たちは、どれだけ神に赦された者でしょうか。

 

私たちは、自分自身が神にどれだけ赦されたかを知れば知るほど、他者を赦せるようになるでしょう。

 

多く赦されたことを知る者は、多く赦すようになります。そして、多く愛するようになります。

 

"...この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。" ルカの福音書7章47節

 

つまり、赦しの心を持つかどうかは、その人の永遠だけでなく、その人の人格、人生にも影響を与えるものになります。

 

赦されていることを知らない者は、人を赦さず、愛する心を持たずに人生を歩むようになります。

 

"神の聖霊を悲しませてはいけません。...無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。" エペソ人への手紙4章30-32節