ヨハネの黙示録3章10節から「携挙」を考える
このブログは、David Platt氏が語った言葉に影響され、始めました。
彼はこのように語りました。
As followers of Jesus, we don't just receive the Word; we reproduce the Word.
キリストの弟子として、みことばの教えを受けるだけでなく、受け取った教えを今度は自分が誰かに語る、ということです。
David Platt氏は、そのことは大宣教命令の実践につながるため、大切だと語ります。
大宣教命令とは、イエスさまが弟子たちに語られた"あらゆる国の人々を弟子とするように"という命令です。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイの福音書28章19,20節)
世の終わりまで続くこの命令は、イエスさまから直接命じられた十一人の弟子たちだけでなく、この世の終わりまで生きるすべてのキリストの弟子が応じるべき命令です。
聖書では、キリストを信じたクリスチャンはみな「(キリストの)弟子」と呼ばれています。
そこで、彼の言葉を受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(使徒の働き2章41節)
この箇所では、キリストを信じて救われた人がすぐに弟子と呼ばれています。
クリスチャンとして成熟したら弟子として認められるのではなく、クリスチャンになる=キリストの弟子になる、ということです。
つまり、キリストを信じて救われた者はみな、その弟子に命じられた大宣教命令に生きる責任が与えられている、ということです。
それでは、具体的にどのように大宣教命令に生きるのでしょうか?
ここでそのことを詳しく見ることはしませんが、大宣教命令は三つの要素に分けることができます。そしてその一つは「教える」こと(Teaching)です。
「教える」という務めを"特に"果たすのは、牧師や神学者、教師など、教える役割を担う人たちでしょう。
しかし、それらの特定の役割を担った人々のみが教える務めを果たすだけでなく、すべてのキリストの弟子が程度の差はあれ「教える」務めを果たすのです。
もちろん牧師と同じような形で毎週講壇から語るわけではないでしょうが、様々な形を通して「教える」ことに取り組むことができると思います。特に、後輩のクリスチャンに対しては、多くのことを教えることができるでしょう。または、教会での交わりや聖書勉強、教会学校の働きを通して、教えることに取り組むことができるかもしれません。
教えることに取り組む上で、David Platt氏は"reprodusing the word"が大切だと説きます。説教や聖書勉強でみことばを学ぶときに、聞いて終わりではなく、その学んだことを今度は自分が誰かに語ったり教えたりするのです。
そこで、私は牧師や教師などの肩書きがあるわけではありませんが、一人のキリストの弟子として、学んだことを積極的にシェアしてみようと考え、このブログをスタートしてみました。
このブログでは、私が学んでいることをシェアするものなので、自然と色々な聖書箇所、また、トピックを扱うことになります。
今はたまたま終末論、特に携挙に関しての内容となっていますが、決してそのような内容に限定してるわけではありません。
もう少しの間、終末論、特に携挙に関する内容が続きますが、それが終わったら終末論とは異なる内容に関しても書いていきたいと願っています。
それでは今回も、最近、私が学んでいる終末論の内容をシェアさせていただきます。引き続き特に「携挙」に関する内容です。
今回はヨハネな黙示録から携挙のことを考えていきますが、その前に、携挙に関する異なる考え方についてまず触れたいと思います。
携挙には、大きく分けて三つの考え方があります。※1
① 患難期前携挙説
② 患難期中携挙説
③ 患難期後携挙説
の三つです。
この中の患難期前携挙説と患難期中携挙説では、携挙のタイミングに関する見解は異なりますが、携挙そのものの捉え方は同じだと言えるでしょう。
つまり、以下のように携挙を捉えています。
a: キリストの再臨には空中再臨(携挙)と地上再臨の二つがある。
b: 教会はキリストが空中再臨されるときに"天"に引き挙げられる。
c: 患難時代が過ぎ去った後にキリストとともに地に降りて来る。
この二つのことに関しては、患難期前携挙説に立つ人も、患難期中携挙説に立つ人も同じように理解しています。
そのような捉え方とは異なり、患難期後携挙説では次のように携挙、または、再臨を理解しています。
a: キリストの再臨は地上再臨の一回のみである。
b: 教会は患難時代を通過し、キリストの地上再臨を迎える。
c: 再臨と携挙は連続した一つの出来事である。
患難期後携挙説に立つ人は、空中再臨、つまり、教会が"天"に引き挙げられるという意味での携挙を信じていません。そうではなく、再臨はキリストが地上に降りて来られる時の一回のみであり、その時にキリストにある者が"空中"に引き挙げられるという意味で携挙を信じています。つまり、再臨と携挙は連続した一つの出来事だと理解しているのです。
このように、立場の違いよって「携挙」という言葉の意味合いが変わってくきます。
ただ、これは個人的な印象ですが、日本語で「携挙」と言うと、空中再臨、つまり「"天"に引き挙げられる」という意味で理解されることが多いと思います。
私がこのブログで「携挙」という言葉を使うときも、それは空中再臨を意味し、患難期前携挙説、また、患難期中携挙説に立つ人たちの理解、つまり「天に引き挙げられる」という意味で使うようにしています。
今回、ヨハネの黙示録3章10節を特に見ていきますが、この箇所は患難期前携挙説において携挙の根拠とされる聖書箇所です。※2
そこにはこのように書いてあります。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。(ヨハネの黙示録3章10節)
まず、なぜこの箇所が患難期前携挙説の根拠とされるのかを簡単に説明します。
その後で、この箇所を患難期前携挙説の根拠とすることの問題について触れます。
1. なぜヨハネの黙示録3章10節は患難期前携挙説の根拠とされるのか?
その理由は、とてもシンプルです。
全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
とありますが、ここに記されていることを次のように理解します。
a:「全世界に来ようとしている試練」=患難時代
b: 「あなた」= 教会時代のクリスチャン全員
c: 「試練の時には」= 試練の時"から"
つまり、患難期前携挙説に立つ人たちは「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」を「この世の終わりにおける患難時代から、あなたを守ろう」と理解します。
そして、この患難時代からの守りは、教会が"天"に引き挙げられる携挙だと理解します。それは「試練の時"には”」と訳されているギリシャ語の前置詞"ek"の理解に基づいています。この"ek"という前置詞は「区別」や「分離」を意味するため、試練の時(患難時代)からの守りは、そこから分離されることを通して、つまり、天に引き挙げられることを通して実現する、と理解するのです。
このような理解をするため、教会は患難時代を通過せずに、その前に天に引き挙げられる(携挙される)と理解しています。
それでは、次にこの理解の問題を取り上げたいと思います。
2. ヨハネの黙示録3章10節を患難期前携挙説の根拠とすることの問題について
それは、解釈上の問題です。
前述したように、患難期前携挙説に立つ人は、この箇所を次のように理解します。
a:「全世界に来ようとしている試練」=患難時代
b: 「あなた」= 教会時代のクリスチャン全員
c: 「試練の時には」= 試練の時"から"
本当にこのように解釈するのが正しいのかを考えていきます。
ここでは特に b と c の理解の問題点について触れます。
① "あなた"は、本当に教会時代のクリスチャンと理解していいのか?
と
② "試練の時には、あなたを守ろう"は、本当に試練からの脱出を意味するのか?
の二つのことを考えていきます。
まず一番目「"あなた"は本当に教会時代のクリスチャンなのか?」から考えていきましょう。
3章10節だけ抜き出すと「あなた」は一体誰のことなのか分かりません。なんとなくクリスチャンのことが言われてるような気がしますが、正確には1世紀後半に実在したフィラデルフィヤの教会を指します。なぜなら、この箇所はフィラデルフィヤの教会に対して語られた言葉です。
黙示録2,3章には七つの教会が出てきます。そして、それぞれの教会にイエスさまは手紙を書き送りますが、その中の一つがフィラデルフィヤの教会です。
3章10節は、かつて小アジアに実際に存在した「フィラデルフィヤの教会・クリスチャン」に対して語られた言葉であり、この釈義を無視して、すぐに私たちに適用してしまうならば、それは聖書の読み方として問題があると思います。
もちろん、黙示録2,3章に書かれている教会に対する手紙から、私たちに適用できることはたくさんあると思いますが、その聖書箇所の本来の意味を無視して、一足飛びに自分たちに適用するのは避けなければいけません。釈義をした後に、第一義的な意味を超え、適用として他のクリスチャンも当てはまるかを考えるべきです。
「あなた」が教会時代のクリスチャンではなくフィラデルフィヤの教会であるということは「試練の時における守り」の約束も、フィラデルフィヤの教会に対して与えられたものです。クリスチャン全般に与えられたものではありません。黙示録2,3章に出てくる七つのうちの一つの地域教会にだけ与えられたものです。
そして、そのフィラデルフィヤの教会は主に喜ばれる特別な教会だったと言えると思います。
それは、3章10節に書かれてある約束が与えられた理由からも分かります。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。(ヨハネの黙示録3章10節, 下線は筆者による)
フィラデルフィヤの教会には無条件に約束が与えられたのではなく、理由がありました。それは「わたしの忍耐について言ったことばを守った」ことです。だから、あ練の時における守りの約束が与えられたのです。
イエスさまは「あなたが"クリスチャンだから"、あなたを守ります」とここで言っているのではなく「"あなたが"忍耐深いから"、あなたを守ります」と言っているのです。
つまり、この約束が与えられた理由(忍耐深さ)を無視して、この約束はどんなクリスチャンにも適用されるとするのには無理があると思います。
フィラデルフィヤの忍耐深さ、また、キリストの言葉を守る従順さは、どれほどのものだったのでしょうか?
七つの教会に宛てられた手紙には、基本的にその教会に対する叱責の内容が出てきます。しかし、フィラデルフィヤにはその叱責が出てきません。叱責や(それに基づく)奨励はなく、賞賛と約束だけが語られているのです。
エペソやペルガモン、ティアティラなどの叱責された教会とは異なり、主の目にかなう教会、主に褒められ、喜ばれる教会だったのです。
つまり、ヨハネの黙示録3章10節の約束が語られている本来の対象は"普通"の教会・クリスチャンだったわけではなく、優れた(主に喜ばれる、良い)教会・クリスチャンでした。そして、神のことばを守り、神の名を否まず、忍耐についての教えに従順に歩んでいたからこそ、約束が与えられたのです。
そのようなフィラデルフィヤの教会に対して与えられた約束を、私のものであるとは簡単には言うことができるでしょうか?
または、教会時代のクリスチャン"全員"に与えられていると、本当に言うことができるのでしょうか?
少なくとも(叱責されるところの多い)私は、フィラデルフィヤのキリスト者たちに肩を並べる自信は全くありません...。
黙示録3章10節の試練からの守りの約束は、クリスチャン全般に適用できる一般的な約束では決してなく、"特定"の、また、"特別"なクリスチャンたちに対して与えられた約束です。
しかし、この箇所が携挙(空中再臨)の根拠とされる時「あなた」は「私たち(教会時代のクリスチャン全員)」とされ、その約束も私たちのものだとされます。そのことに私は違和感を覚えます。
「もしあなたがたがフィラデルフィヤの教会のように、忍耐深く、責められるところがないのであれば、彼らと同じようにやがえて世界を襲う大きな試練から守られます」と語るのであれば、まだその論理は分かります。ただ、"理由"を無視して、すべてのクリスチャンに適用されるとするのは軽率な解釈に思えます。
次に「"試練の時にはあなたを守ろう"は本当に"試練からの逃れ"ことを意味するのか?」を考えていきましょう。
前述したように、患難期前携挙説に立つ人たちは「試練の時には、あなたを守ろう」を「試練の時"から"、あなたを守ろうと」と理解します。試練の時が来る前に、教会は天に引き挙げられ、試練から逃れることができると考えるのです。「には」と訳されている"ek"というギリシャ語の意味(「区別、分離」)から、そのように理解します。
この"ek"という前置詞は新約聖書で何百回と出てきます。そして、この箇所以外にも試練や患難のことと関連して出てくる箇所があります。それはヨハネの福音書17章15節です。そこには、十字架につかれようとしているイエスさまの、父なる神様に対する祈りの言葉が書いてあります。13節からみてみましょう。
わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から(ek)守ってくださるようにお願いします。(ヨハネの福音書17章15節, 強調や下線、括弧書きは筆者による)
ここに出てくる「彼ら」は、御父が世から選び出してキリストに与えられた者たち、つまり、クリスチャンをのことを言っています。それは、ヨハネの福音書17章6節から分かります。
わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。(ヨハネの福音書17章6節, 下線や強調は筆者による)
その彼ら(クリスチャン)のために、イエスさまが15節で祈られる時に、「クリスチャンがこの世から取り去られるように」とは祈りませんでした。そうではなく「悪い者から守ってくださるように」と祈りました。
実際に、イエスさまは復活後、召天され、御父のもとに行き、この世にはいなくなりましたが、クリスチャンたちはこの世に残っています。それは、その前の11節に書かれている通りです。
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(同17章11節, 下線は筆者による)
イエスさまは、彼らと一緒にいることはできないのですが、彼らの守りを祈ります。「御名の中に、彼らを保ってください」「彼らを...悪い者から守ってくださるように」と。
クリスチャンはこの堕落した世に生き続けますが、その中にあって神様の守りがあるのです。
つまり、イエスさまが「悪い者から(ek)守ってくださるように」と言われたとき、その"ek"は悪い者からの完全な分離を意味したわけではないのです。
このことから、"ek"という「区別」や「分離」を意味する前置詞が使われたとしても、絶対に完全な分離を意味するとは言えないことが分かります。
そのため「試練の時には(ek)あなたを守ろう」という言葉を、"ek"が使われてるから教会は試練が訪れるこの世から完全に分離されるのだと理解するのは、適切な解釈であるとは言えません。
仮にフィラデルフィヤの教会が、エノクやエリヤのように生きたまま天に挙げられたのであれば、この"ek"は、試練からの完全な分離だと理解できます。ただ、彼らは天に挙げられたわけではありませんでした。
黙示録は1世紀の終わりに書かれたと考えられますが、(彼らにとっての)全世界を巻き込んだドミティアヌス帝のキリスト教迫害と恐怖政治の中を、彼らは生き延びました。彼らは天には挙げられずに、その試練、患難の中にあって、主の守りを経験したのです。だからフィラデルフィヤの教会は、13世紀まで存続しました。※3
ヨハネの黙示録3章10節は、本当に、教会が天に携挙されることを言っているのでしょうか?
この箇所をもとに、本当に、私たちは携挙を、また、患難時代を通らないと信じるべきなのでしょうか?
私たちは勘違い、誤解をし易いものです。ある神学的な推論のもとに、聖書箇所の意味を、その推論から導き出された結論に至らせてしまうことがあります。
そのため、誰もが自分の神学に合うようにみことばを理解してしまう危険性があることを考慮しつつ、みことばと向き合わなければいけないと思います。
患難期前携挙節は、聖書的根拠が薄いという弱点があると思いますが、もしかすると、だからこそ携挙のことを言っていると思える箇所を「そのように語ってる!」と理解してしまうのかもしれません。
私たちは聖書を理解する時に、出来るだけ"ある立場のメガネ"を外して、本当のところ著者は何を言わんとしているのか、オリジナルの読者はその箇所をどのように理解したのか、を理解する必要があります。そして、正しい解釈のプロセスを介さずに、一足飛びに、ある結論を導き出したり、自分自身に適用したりするのを避けなければいけません。
だから、クリスチャンには謙遜さ、忍耐深さ、思慮深さが求められます。
私自身も間違いを犯してしまう一人の愚かな罪人です。
キリストの力によって、また、御霊の助けによって、これからもへりくだりつつ、神のことばに向き合い、御心を知っていきたいです。
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※1: ハーベスト・タイム・ミニストリーズのリソースで、この三つの立場、そして「御怒り前携挙説」について紹介されています。
※2: 患難期中携挙説に立つ人も、ヨハネの黙示録3章10節をその根拠として信じてると思います。それは、ヨハネの黙示録に記されている鉢のさばきが下る期間を"大患難時代"とし、そのさばきの期間に入る前に携挙されると考えるためです。
※3: 中川健一氏がフィラデルフィヤの教会に関するメッセージでそのことを紹介されています。