オリーブ山の説教から「携挙」を考える
ここまでずっと終末論に関する記事を挙げています。
終末論を学ぶことは、大切なことでしょうか? それは、キリスト者にとって必要なことでしょうか?
終末に関する事柄がたくさん書かれているヨハネの黙示録では、最初と最後にこの書を学ぶ者に対する祝福が書かれています。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。(ヨハネの黙示録1章3節, 太字は筆者による)
「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」(ヨハネの黙示録22章7節,, 太字は筆者による)
終末論を学びには祝福が伴います。
それでは、終末論を学ぶことの具対的な祝福とは何でしょうか?
たくさん挙げられるでしょうが、一つは聖化です。
ヨハネの手紙第一 3章2,3節にこのようにあります。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一 3章2,3節, 太字は筆者による)
いつの日か、クリスチャンはキリストの再臨に立ち合います。その目でキリストのありのままの姿を見るのです。
そして、キリストがどれだけ栄光と聖さに満ちているのかを目の当たりにし、その瞬間に私たちはキリストに似た者へと変えられます。
そのキリストの現れを待ち望む者には、やがて変えられるだけでなく、この地上生涯においてもキリストに似たものへと変えられていきます。キリストが聖くあられるように自分自身を聖くするのです。
つまり、再臨待望は聖化を促進させると言えます。
再臨に対する希望は、私たちの今の生活を変えるのです。
初代教会は再臨待望に溢れた教会だったでしょう。
イエスさまや初代教会のリーダーたちの言葉が収められた新約聖書は、再臨に関する教えで満ち溢れています。キリストの再臨についての証言が、新約聖書には三百回以上も存在すると言われます。※1
イエスさまもパウロもヨハネもペテロも、再臨について触れています。再臨信仰は初代教会の重要な信仰の一部でした。
新約聖書を開いて読む度に再臨について書かれているとも言えますが(※2)、終末論は解釈が様々あり、時に"ややこしい"議論になってしまうことがあるため、終末論に触れたり、学んだりすることは避けられてしまうことがあります。
しかし、新約聖書を記した著者たち、また、聖書の真の著者である神様は、私たちが再臨のことを学び、その再臨を待ち望み、主の現れを慕い求めて生きて欲しいと願っておられるはずです。
テモテへの手紙第二4章には、このようなみことばがあります。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(テモテへの手紙第二 4章8節, 太字は筆者による)
ここで「主の現れを慕っている者」と 訳されている言葉は、英語では"all who have loved his appering"と訳され、"love"という言葉が使われています。
パウロは、キリストの現れを"愛し"、慕い求める者でした。
そのパウロが「私だけでなく」と語っています。もし偉大な伝道者であり、特別なクリスチャンであるパウロ自身だけが再臨を慕い求め、愛することができるのであれば「私だけでなく」とは語らなかったでしょう。
パウロだけでなく、私たちも主の再臨を心から待ち望み、愛し、慕う者になることができるのです。そして、正しいさばき主である主はやがて、そのような者たちに義の栄冠を授けてくださいます。
願わくは、キリストの再臨を慕い求め、ますますキリストの聖さを帯びた者へと変えられていきますように。
さて、今回も終末論について、その中でも特に「携挙」について学んでいきます。
今回は、イエスさまがオリーブ山で語られた説教(マタイの福音書24,25章)から「携挙」について考えてみましょう。
オリーブ山の説教はイエスさまが終末に関して語られた説教です。
終末論がテーマとなっていますが、この説教が記された聖書箇所が携挙の根拠として提示されることはありません。というのも、この説教には「携挙」に関する内容が一切含まれていないからです。
もし教会がやがて天に挙げられるのだとしたら、なぜイエスさまはご自分の弟子たちの大きな希望となる携挙について何も語らなかったのでしょうか?
もし携挙があるならば、イエスさまはそのことを弟子たちに伝えたいと願い、そのことに希望を抱いて生きるように教えられたのではないかと思います。
オリーブ山の説教に携挙のことが書かれていないことは、携挙を信じていた頃の私にとって大きな疑問でした。
患難期前携挙節に立つ人たちは(または患難期中携挙節に立つ人たちも)、この説教を携挙を含めて理解しようとしますが、本当にそのような理解は相応しいのでしょうか?
この説教を、患難期前携挙説を前提にこの箇所を理解しようとすると、疑問や混乱が生じると思います。それは、イエスさまが携挙について全く触れず、患難期前携挙説の考えがはっきりと読み取れないからです。むしろ、イエスさまの語っていることと患難期前携挙説で教えられることが合致しないように見えるところがあります。そのため、この説教は患難期前携挙説に立つ人にとって、理解が容易でないでしょう。まるでオリーブ山の説教は特別な(専門的な?)読み方をしないと分からない難しい説教だと感じてしまいます。
"自然に"読んだだけでは、イエスさまが患難期前携挙説の理解を持ってるとは思えない説教ですが、イエスさまは一体私たちに何を教えているのでしょうか?
いや、そもそもこの説教のオリジナルの聴衆と読者はどのように理解したのでしょうか? それが聖書解釈のゴールです。著者の意図と読者の理解はどのようなものだったのでしょうか?
ある神学的な立場を前提にこの箇所を読み、その立場を含めて理解しようとするのではなく、聴衆と読者が純粋にどのように理解したのか、語り手であるイエスさまの意図を探ることが大切です。
この説教を聞いた聴衆、また、この福音書を読んだ読者は、終わりの時代に自分たちが携挙されると理解したでしょうか?
いくつかの箇所を見ながら、そのことを考えていきたいと思います。
オリーブ山の説教の冒頭には、このようにあります。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マタイの福音書24章3節, 太字は筆者による)
イエスさまがオリーブ山の説教を語った対象である「彼ら」とは、誰のことでしょうか?
2節に彼らが誰なのかが書いてあります。
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしよう。(マタイの福音書24章2節, 太字は筆者による)
「彼ら」とは「弟子たち」です。もっと具体的に言えば、イエスさまの周りにいた弟子たちです。
この弟子たちは今後、キリストのからだである教会に加えられ、教会を建て上げ、福音宣教のために用いられる者たちです。
直接的には、実際にイエスさまの周りにいた弟子たちを指しますが、広い意味では、教会時代のキリストの弟子と理解できます。
ご自身の弟子たちにイエスさまが4節で語られたことは「人に惑わされないように気をつけなさい」ということでした。
イエスさまは弟子たちに対して注意しなさいと言われています。それは「私こそキリストだ」と言って、救い主を名乗る者が大勢現れるためです。
イエスさまがそのような者たちに気をつけなさいと語るということは、ここで注意すべきだと言われてる事(「偽キリストが現れる事)は弟子たちが体験するであろうことを意味します。つまり、偽キリストが現れるのは、キリストの弟子が生き続ける教会時代です。
その後、6節で、イエスさまは弟子たちにこのように注意を与えます。
また、戦争や、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。(マタイの福音書24章6節, 太字は筆者による)
イエスさまが周りにいた弟子たちに対して「気をつけて、あわてないようにしなさい」と命じられました。つまり、イエスさまは、弟子たちが戦争や戦争のうわさを聞くだろうと考えています。弟子たちが生きる時代(教会時代)に、戦争が起こり、人々は戦争の噂をします。
続いて、9節にはこのように書かれています。
「そのとき、人々は、あなたがたを苦しい目に会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人に憎まれます。」マタイの福音書24章9節, 太字は筆者による)
ここに「あなたがた」と書かれています。これも、キリストの周りにいた弟子たち、広い意味では教会時代を生きる弟子たちだと理解すべきです。
つまり、教会時代のクリスチャンたちは、この世の人々に苦しい目に会わせられたり、殺されたり、憎まれたりするのです。
患難期前携挙説に立つ人たちは、この「あなたがた」は教会が天に携挙された後の患難時代に生きるクリスチャン、または、ユダヤ人だと理解します。それは彼らの頭の中では、すでにクリスチャンがこの時点で天に挙げられているからです。
しかし、イエスさまはそのような意図、理解を持っておられたのでしょうか?
弟子たちが「あなたがた」という言葉を聞いた時に「自分自身」ではなく「(自分ではなく)未来のクリスチャン」または「(自分たちではない)未来のユダヤ人」だと理解したでしょうか?
そのような解釈をこの「あなたがたに」施すのは、神学的な推論に基づく強引な解釈のように思えます。
このイエスさまの終末に関する説教からは、終末に起こる患難からクリスチャンが逃れられるとは考えられないと思います。いやむしろ、9節にあるように反対のことが書かれています。
これまでに挙げた箇所以外でも、このオリーブ山の説教では、そこに書かれた(そこで語られた)ことがオリジナルの聴衆や読者が経験するであろう(またはその可能性がある)こととして書かれています。例えば、15節、23節、25節、33節などです。
つまり、オリーブ山の説教から私たちが理解することは、終末における出来事を教会は体験する、ということです。そして、この説教から見て取れるイエスさまの終末理解には、携挙は含まれていないのではないかと思います。
オリーブ山の説教の中で、イエスさまは福音宣教の完了について語られました。
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
ディスペンセーション主義に立つならば、福音が全世界に伝えられる時に教会はこの地上には存在しません。その前に教会は天に挙げられています。つまり、その理解に基づくならば、教会が天に挙げられたら、その先の福音宣教は、次の時代のクリスチャンたちの使命になるのです。
福音宣教(大宣教命令)は次の時代の人々にバトンタッチされるものであり、私たちには部分的に与えられたものであると考えます。そして、あるクリスチャンたちは、自分がいなくなった後のために、次の時代の人々が見れるリソースをつくっています。
しかし、この福音宣教の完了について語られたイエスさまの説教の中には、携挙のことは一切含まれていません。それどころか、キリストの弟子たちがこの世の終わりの患難の時代を生き、その中にあっても最後まで耐え忍ぶように語られています。そして、その中にこのみことばがあったのです。
弟子たちは、最後の最後まで忍耐をもってキリストを証しすることで、福音宣教の達成が実現すると考えたでしょう。
大宣教命令は、まさに自分たち(私たち)のミッションなのです。
キリストの再臨を目指して歩むということは、大宣教命令の達成を目指して歩むということでもあります。
しかし、携挙に希望を置いて歩む時に、世界宣教が完了する前に私たちは天に挙げられ、そこにフォーカスを当てて生きるため、大宣教命令の完遂を目指して生きるという使命感・生き方が薄まってしまうように思います。
この大宣教命令はまさに教会に与えられたものであり、その教会が、使命達成の日まで誠実・従順に福音を宣べ伝え続けるのです。
そしてこの言葉を受け取った弟子たちにとっては、このイエスさまの言葉が大きな励ましとなったでしょう。なぜなら、福音宣教には確約があるからです。イエスさまが「福音は全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証しされ、それから終わりが来る」と約束されたからです。私たちがどんなに弱く、未熟であったとしても、絶対に失敗に終わることがないミッションなのです!神の力によって、必ずや福音は世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証しされます。
この確約の言葉を聞いたイエスさまの弟子たちが、確信をもって福音宣教に励んだからこそ、初代教会の時代、福音が爆発的に広まったのでしょう。
彼らはエルサレムからユダヤ、ユダヤからサマリヤ、サマリヤから世界の果てにまで、すべての国語、部族の人々が福音を聞くことを求め、命を犠牲にして生きました。
私たちは携挙ではなく再臨を待ち望み、部分的に大宣教命令が達成されることではなく、完全に達成されることを求めて生きるべきです。
願わくは、私たちが「この御国の福音が全世界に宣べ伝えられますように!」そして「主イエスよ、来てください!」という祈り、願いを持って歩むことができますように。
※1: J. I. Packer氏が『私たちの信仰告白 使徒信条』という書の中で、キリストの再臨に関する証言が新約聖書に3百回以上も出てくると記しているそうです。
※2: 新約聖書の中で、26節に1回の頻度で再臨が言及されています。