人を赦さない心がもたらすものとは...
「怒りや恨みを持ち続けるべきでない」
クリスチャンとして、それが正しい事だとは知っていました。
聖書にはこのようにあります。
"だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。" ローマ人への手紙12章17-19節
しかし、怒りや恨み(赦さない心)を持ち続ける時、その人の将来がどうなるのかは知っていたようで、しっかりと頭の中には入っていませんでした。
聖書にはこのようにあります。
"もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。" マタイの福音書6章14,15節
人を赦さないなら、その人は神から赦されることがない...。
赦さない心は、永遠の死を招く心です。
赦さない思いは、自分を危険に陥れる思いです。
神様は、聖書を通して、何度も何度も、赦さない心を捨て、人を赦すように教えています。
イエスさまは、その弟子たちにお語りになりました。
"そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」" マタイの福音書18章21節
つまり、私たちは、何度も何度も人を赦すのです。
この世の人たちが「どうしてそこまで?」と思ったとしても、私たちはその人の罪を赦すのです。
イエスさまは、そのすぐ後で、ある一人の王のたとえ話を語られました。
その王の一人の家来が、王に負債を返せなかったため、嘆願し、自分の負債を免除してもらいました。しかし、その家来自身は、自分に負債のある者を赦さずに牢屋に投げ込みました。その後、王はそのことを知り、その家来を牢屋に入れます。
イエスさまは、その最後でこうお語りになりました。
"あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたにこのようになさるのです。" マタイの福音書18章35
ここでも、イエスさまは人を赦さないなら、神から赦されないと語られました。
そして、その赦しは、表面的なもの、形だけのものではなく、心からの赦しです。
だからと言って、私たちは相手に何をしてもいいわけではありません。「みんな優しいから」「どうせ赦してもらえるから」と言って、罪を犯していいわけでは決してありません。
実は先程の王と家来の例え話は、教会内の罪の問題をどう処理するか(教会戒規)に関する話(18:15-20)のすぐ後でなされました。
教会の信徒が罪を犯し、そのことに対する取り扱いに応じない場合、その人はもはや信徒としてではなく、信仰を持たない者として扱われます。その罪は赦されないのです。そして、その罪は天でも赦されません。
地上で罪を犯し続ける者には、天で滅びが待っています。キリストと一体とされたキリスト者は、キリストの聖さを追い求めるものです。そうでない者には、滅びが待っているのです。
私たちは、赦さない罪から、解放されて、キリストのように人を赦す者に変わっていくでしょう。
しかし、「人を赦さない」ことはあまり問題とされないのではないでしょうか?
Desiring Godの設立者であるジョン・パイパー牧師は、神学校に通っていた時代に属していたスモールグループで、ある女性が母親を絶対に赦さないと語ったため、その女性にいくつかのみことばを示しながら、赦さないことの危険性と必要性についてはっきりと語りました。
まだ牧師にもなっていない頃から、一人の信徒として、他の信徒にはっきりと聖書に基づいて考えるならば「赦さなければならない」と語ったのです。彼は、いくら個人的な経験や感情が伴うことで、それがはっきりと理解できるものでなかったとしても、「それは仕方のないこと」とはしませんでした。
私たちは「赦したくない」という思いと闘わなければいけません。
その「人を赦そうとしない」意思・思いは、神の教え・御心・命令に反するもので「罪」です。それは神を、私たちのうちにいる聖霊を悲しませます。
私たちクリスチャンは、その兄弟姉妹が人を赦さないことを「その人の問題だから」「その人自身の過去や感情に関わる個人的なことだから」と関わらないようにしたり、軽く見たりしてはいけません。なぜなら、赦さない思いを持ち続ける事は永遠に関わる問題だからです。
本来、そのような事にも教会戒規が適用されるべきなのかもしれません。
私たちクリスチャンは、主から計り知れない負債を免除された者です。
私たちは主に、どれほどの負債があったでしょうか。
神の御子が、十字架にかかって死ななければいけないほどの負債です。
私たちは、どれだけ神に赦された者でしょうか。
私たちは、自分自身が神にどれだけ赦されたかを知れば知るほど、他者を赦せるようになるでしょう。
多く赦されたことを知る者は、多く赦すようになります。そして、多く愛するようになります。
"...この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。" ルカの福音書7章47節
つまり、赦しの心を持つかどうかは、その人の永遠だけでなく、その人の人格、人生にも影響を与えるものになります。
赦されていることを知らない者は、人を赦さず、愛する心を持たずに人生を歩むようになります。
"神の聖霊を悲しませてはいけません。...無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。" エペソ人への手紙4章30-32節
何かを"美しい"と思えるのはなぜ?
妻に勧められて『美しき愚かものたちのタブロー(原田マハ著)』という小説を読みました。
美術に関する小説と聞いて、美術に関する知識も興味関心もほぼ皆無の私が面白いと思うか定かではありませんでしたが、妻が「すごい面白いよ」と絶賛していたので勧められるがままに読んでみました…。
結果、とっても面白かったです!
2019年に設立60周年を迎えた国立西洋美術館。その創設のために奮闘した男たちの物語。
読み終わってから、なぜこの世界に美術が存在するのか、また。なぜ美術に魅せられる人がいるのか、そんなことを考えさせられました。
日本人のほとんどが本物の西洋絵画を見ることができない時代、本物の絵画を観た者たちは、その美しさに魅了させられました。それは非常に美しかったのです。
この世界が造られた時、創造主はその美しい被造世界をご覧になられました。それは非常に良かったのです。創世記1章31節にはこのように記されています。
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
この「良かった」と訳されているヘブル語の"towb"という言葉は、多様な意味を持った言葉ですが、その中の一つは”beautiful"です。
神がお造りになったものは、非常に美しかったのです。それは堕落してなおも美しいこの被造世界を見れば分かるでしょう。
美しいものを造られ、美しいものを喜ばれる神に似せて造られている人間だからこそ、美しいものを描き、美しいものを楽しむのです。
私もちょっとは美術を楽しみたいものです...。(誰か教えてください!笑)
"Happy"なクリスチャンでいたい。
天の神様は、クリスチャンにとって「天のお父さん」です。
私たちにとって、その天のお父さんは、具体的にどのようなお父さんでしょうか? 人間に例えるならば、どんなイメージの父親でしょうか?
同じ信仰を持ったクリスチャンの間でも、そのイメージは異なると思います。
そして、その天の父のイメージは、自分の肉の父、自分を実際に育ててくれたお父さんとの関係から形作られている部分があると思います。
私の場合、クリスチャンになって、いくら神様について学んでも...
・いつも寄り添ってくれる。
・いつでも子どもの思いを聞いてくれる。
・いつも子どものことを笑顔で見ていてくれる
というような、天のお父さん像を持つことが難しかったのを覚えています。
いつもチェックされてるような感覚を覚え、ちゃんとしていなきゃいけないと思っていました。
でも、聖書を学ぶにつれて、徐々に徐々に、実際の父のイメージから脱し、聖書が語る天の父のイメージに近づいていきました。
その一つは、このようなものです。
私の天のお父さんは、いつも難しい顔をして子どもを見ているのではなく、子どもに対して笑顔で接してくれるハッピーなお父さんです。
テモテの手紙第一1章11節にはこのように書いてあります。
祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。
ここに「祝福に満ちた神」とあります。
この「祝福に満ちた」という形容詞は、ギリシャ語で"makarios "という言葉で、新約聖書で50回登場します。
代表的な箇所だと山上の垂訓で使われていて、主に「幸い」と訳されるこの言葉は、英語では「blessed」と主に訳されています。
そして、"happy"または"happier"とも訳されています。
私たちの神は、幸い、幸福、ハッピーな神です。
私たちが信じた福音は、栄光の福音です。
そして、その栄光の福音は、祝福に満ちた、幸いでハッピーな神が与えてくださったものです。
神様は、笑顔で、幸いと喜びに満ちながら、その栄光の福音を私たちに授けてくださいます。だからこそ、この福音は、栄光の福音なのでしょう。
もし、キリストを信じた私たちに対して、神様が未だに不満を持っておられ、さばくような心を持っておられるのならば、パウロはその福音を「栄光の福音」とは言わなかったと思います。
私たちはキリストのゆえに神のものとされ、神の子とされました。
御父は、御子に「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と言われたように、ご自身の子である私たちにも同じ言葉を語りかけてくださるでしょう。
今、神様は私に対して笑顔を向けてくださっている。
キリストの完全な購いのゆえに、御父はキリストにある私を喜んでくださっている。
そのように思うようになって、私の心は本当に晴れやかになりました。
もはや厳しい顔で私を見ている天のお父さん像は消え去りました。
幸せと笑顔に満ちた神様と共に、日々を歩めるのは何と幸いなことでしょうか。
願わくは、この素晴らしい神が私に幸せと笑顔に満ちて接してくださるように、私も周りの人に対して明るく笑顔で接することができますように。
オリーブ山の説教から「携挙」を考える
ここまでずっと終末論に関する記事を挙げています。
終末論を学ぶことは、大切なことでしょうか? それは、キリスト者にとって必要なことでしょうか?
終末に関する事柄がたくさん書かれているヨハネの黙示録では、最初と最後にこの書を学ぶ者に対する祝福が書かれています。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。(ヨハネの黙示録1章3節, 太字は筆者による)
「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」(ヨハネの黙示録22章7節,, 太字は筆者による)
終末論を学びには祝福が伴います。
それでは、終末論を学ぶことの具対的な祝福とは何でしょうか?
たくさん挙げられるでしょうが、一つは聖化です。
ヨハネの手紙第一 3章2,3節にこのようにあります。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一 3章2,3節, 太字は筆者による)
いつの日か、クリスチャンはキリストの再臨に立ち合います。その目でキリストのありのままの姿を見るのです。
そして、キリストがどれだけ栄光と聖さに満ちているのかを目の当たりにし、その瞬間に私たちはキリストに似た者へと変えられます。
そのキリストの現れを待ち望む者には、やがて変えられるだけでなく、この地上生涯においてもキリストに似たものへと変えられていきます。キリストが聖くあられるように自分自身を聖くするのです。
つまり、再臨待望は聖化を促進させると言えます。
再臨に対する希望は、私たちの今の生活を変えるのです。
初代教会は再臨待望に溢れた教会だったでしょう。
イエスさまや初代教会のリーダーたちの言葉が収められた新約聖書は、再臨に関する教えで満ち溢れています。キリストの再臨についての証言が、新約聖書には三百回以上も存在すると言われます。※1
イエスさまもパウロもヨハネもペテロも、再臨について触れています。再臨信仰は初代教会の重要な信仰の一部でした。
新約聖書を開いて読む度に再臨について書かれているとも言えますが(※2)、終末論は解釈が様々あり、時に"ややこしい"議論になってしまうことがあるため、終末論に触れたり、学んだりすることは避けられてしまうことがあります。
しかし、新約聖書を記した著者たち、また、聖書の真の著者である神様は、私たちが再臨のことを学び、その再臨を待ち望み、主の現れを慕い求めて生きて欲しいと願っておられるはずです。
テモテへの手紙第二4章には、このようなみことばがあります。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(テモテへの手紙第二 4章8節, 太字は筆者による)
ここで「主の現れを慕っている者」と 訳されている言葉は、英語では"all who have loved his appering"と訳され、"love"という言葉が使われています。
パウロは、キリストの現れを"愛し"、慕い求める者でした。
そのパウロが「私だけでなく」と語っています。もし偉大な伝道者であり、特別なクリスチャンであるパウロ自身だけが再臨を慕い求め、愛することができるのであれば「私だけでなく」とは語らなかったでしょう。
パウロだけでなく、私たちも主の再臨を心から待ち望み、愛し、慕う者になることができるのです。そして、正しいさばき主である主はやがて、そのような者たちに義の栄冠を授けてくださいます。
願わくは、キリストの再臨を慕い求め、ますますキリストの聖さを帯びた者へと変えられていきますように。
さて、今回も終末論について、その中でも特に「携挙」について学んでいきます。
今回は、イエスさまがオリーブ山で語られた説教(マタイの福音書24,25章)から「携挙」について考えてみましょう。
オリーブ山の説教はイエスさまが終末に関して語られた説教です。
終末論がテーマとなっていますが、この説教が記された聖書箇所が携挙の根拠として提示されることはありません。というのも、この説教には「携挙」に関する内容が一切含まれていないからです。
もし教会がやがて天に挙げられるのだとしたら、なぜイエスさまはご自分の弟子たちの大きな希望となる携挙について何も語らなかったのでしょうか?
もし携挙があるならば、イエスさまはそのことを弟子たちに伝えたいと願い、そのことに希望を抱いて生きるように教えられたのではないかと思います。
オリーブ山の説教に携挙のことが書かれていないことは、携挙を信じていた頃の私にとって大きな疑問でした。
患難期前携挙節に立つ人たちは(または患難期中携挙節に立つ人たちも)、この説教を携挙を含めて理解しようとしますが、本当にそのような理解は相応しいのでしょうか?
この説教を、患難期前携挙説を前提にこの箇所を理解しようとすると、疑問や混乱が生じると思います。それは、イエスさまが携挙について全く触れず、患難期前携挙説の考えがはっきりと読み取れないからです。むしろ、イエスさまの語っていることと患難期前携挙説で教えられることが合致しないように見えるところがあります。そのため、この説教は患難期前携挙説に立つ人にとって、理解が容易でないでしょう。まるでオリーブ山の説教は特別な(専門的な?)読み方をしないと分からない難しい説教だと感じてしまいます。
"自然に"読んだだけでは、イエスさまが患難期前携挙説の理解を持ってるとは思えない説教ですが、イエスさまは一体私たちに何を教えているのでしょうか?
いや、そもそもこの説教のオリジナルの聴衆と読者はどのように理解したのでしょうか? それが聖書解釈のゴールです。著者の意図と読者の理解はどのようなものだったのでしょうか?
ある神学的な立場を前提にこの箇所を読み、その立場を含めて理解しようとするのではなく、聴衆と読者が純粋にどのように理解したのか、語り手であるイエスさまの意図を探ることが大切です。
この説教を聞いた聴衆、また、この福音書を読んだ読者は、終わりの時代に自分たちが携挙されると理解したでしょうか?
いくつかの箇所を見ながら、そのことを考えていきたいと思います。
オリーブ山の説教の冒頭には、このようにあります。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マタイの福音書24章3節, 太字は筆者による)
イエスさまがオリーブ山の説教を語った対象である「彼ら」とは、誰のことでしょうか?
2節に彼らが誰なのかが書いてあります。
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしよう。(マタイの福音書24章2節, 太字は筆者による)
「彼ら」とは「弟子たち」です。もっと具体的に言えば、イエスさまの周りにいた弟子たちです。
この弟子たちは今後、キリストのからだである教会に加えられ、教会を建て上げ、福音宣教のために用いられる者たちです。
直接的には、実際にイエスさまの周りにいた弟子たちを指しますが、広い意味では、教会時代のキリストの弟子と理解できます。
ご自身の弟子たちにイエスさまが4節で語られたことは「人に惑わされないように気をつけなさい」ということでした。
イエスさまは弟子たちに対して注意しなさいと言われています。それは「私こそキリストだ」と言って、救い主を名乗る者が大勢現れるためです。
イエスさまがそのような者たちに気をつけなさいと語るということは、ここで注意すべきだと言われてる事(「偽キリストが現れる事)は弟子たちが体験するであろうことを意味します。つまり、偽キリストが現れるのは、キリストの弟子が生き続ける教会時代です。
その後、6節で、イエスさまは弟子たちにこのように注意を与えます。
また、戦争や、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。(マタイの福音書24章6節, 太字は筆者による)
イエスさまが周りにいた弟子たちに対して「気をつけて、あわてないようにしなさい」と命じられました。つまり、イエスさまは、弟子たちが戦争や戦争のうわさを聞くだろうと考えています。弟子たちが生きる時代(教会時代)に、戦争が起こり、人々は戦争の噂をします。
続いて、9節にはこのように書かれています。
「そのとき、人々は、あなたがたを苦しい目に会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人に憎まれます。」マタイの福音書24章9節, 太字は筆者による)
ここに「あなたがた」と書かれています。これも、キリストの周りにいた弟子たち、広い意味では教会時代を生きる弟子たちだと理解すべきです。
つまり、教会時代のクリスチャンたちは、この世の人々に苦しい目に会わせられたり、殺されたり、憎まれたりするのです。
患難期前携挙説に立つ人たちは、この「あなたがた」は教会が天に携挙された後の患難時代に生きるクリスチャン、または、ユダヤ人だと理解します。それは彼らの頭の中では、すでにクリスチャンがこの時点で天に挙げられているからです。
しかし、イエスさまはそのような意図、理解を持っておられたのでしょうか?
弟子たちが「あなたがた」という言葉を聞いた時に「自分自身」ではなく「(自分ではなく)未来のクリスチャン」または「(自分たちではない)未来のユダヤ人」だと理解したでしょうか?
そのような解釈をこの「あなたがたに」施すのは、神学的な推論に基づく強引な解釈のように思えます。
このイエスさまの終末に関する説教からは、終末に起こる患難からクリスチャンが逃れられるとは考えられないと思います。いやむしろ、9節にあるように反対のことが書かれています。
これまでに挙げた箇所以外でも、このオリーブ山の説教では、そこに書かれた(そこで語られた)ことがオリジナルの聴衆や読者が経験するであろう(またはその可能性がある)こととして書かれています。例えば、15節、23節、25節、33節などです。
つまり、オリーブ山の説教から私たちが理解することは、終末における出来事を教会は体験する、ということです。そして、この説教から見て取れるイエスさまの終末理解には、携挙は含まれていないのではないかと思います。
オリーブ山の説教の中で、イエスさまは福音宣教の完了について語られました。
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
ディスペンセーション主義に立つならば、福音が全世界に伝えられる時に教会はこの地上には存在しません。その前に教会は天に挙げられています。つまり、その理解に基づくならば、教会が天に挙げられたら、その先の福音宣教は、次の時代のクリスチャンたちの使命になるのです。
福音宣教(大宣教命令)は次の時代の人々にバトンタッチされるものであり、私たちには部分的に与えられたものであると考えます。そして、あるクリスチャンたちは、自分がいなくなった後のために、次の時代の人々が見れるリソースをつくっています。
しかし、この福音宣教の完了について語られたイエスさまの説教の中には、携挙のことは一切含まれていません。それどころか、キリストの弟子たちがこの世の終わりの患難の時代を生き、その中にあっても最後まで耐え忍ぶように語られています。そして、その中にこのみことばがあったのです。
弟子たちは、最後の最後まで忍耐をもってキリストを証しすることで、福音宣教の達成が実現すると考えたでしょう。
大宣教命令は、まさに自分たち(私たち)のミッションなのです。
キリストの再臨を目指して歩むということは、大宣教命令の達成を目指して歩むということでもあります。
しかし、携挙に希望を置いて歩む時に、世界宣教が完了する前に私たちは天に挙げられ、そこにフォーカスを当てて生きるため、大宣教命令の完遂を目指して生きるという使命感・生き方が薄まってしまうように思います。
この大宣教命令はまさに教会に与えられたものであり、その教会が、使命達成の日まで誠実・従順に福音を宣べ伝え続けるのです。
そしてこの言葉を受け取った弟子たちにとっては、このイエスさまの言葉が大きな励ましとなったでしょう。なぜなら、福音宣教には確約があるからです。イエスさまが「福音は全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証しされ、それから終わりが来る」と約束されたからです。私たちがどんなに弱く、未熟であったとしても、絶対に失敗に終わることがないミッションなのです!神の力によって、必ずや福音は世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証しされます。
この確約の言葉を聞いたイエスさまの弟子たちが、確信をもって福音宣教に励んだからこそ、初代教会の時代、福音が爆発的に広まったのでしょう。
彼らはエルサレムからユダヤ、ユダヤからサマリヤ、サマリヤから世界の果てにまで、すべての国語、部族の人々が福音を聞くことを求め、命を犠牲にして生きました。
私たちは携挙ではなく再臨を待ち望み、部分的に大宣教命令が達成されることではなく、完全に達成されることを求めて生きるべきです。
願わくは、私たちが「この御国の福音が全世界に宣べ伝えられますように!」そして「主イエスよ、来てください!」という祈り、願いを持って歩むことができますように。
※1: J. I. Packer氏が『私たちの信仰告白 使徒信条』という書の中で、キリストの再臨に関する証言が新約聖書に3百回以上も出てくると記しているそうです。
※2: 新約聖書の中で、26節に1回の頻度で再臨が言及されています。
ヨハネの黙示録3章10節から「携挙」を考える
このブログは、David Platt氏が語った言葉に影響され、始めました。
彼はこのように語りました。
As followers of Jesus, we don't just receive the Word; we reproduce the Word.
キリストの弟子として、みことばの教えを受けるだけでなく、受け取った教えを今度は自分が誰かに語る、ということです。
David Platt氏は、そのことは大宣教命令の実践につながるため、大切だと語ります。
大宣教命令とは、イエスさまが弟子たちに語られた"あらゆる国の人々を弟子とするように"という命令です。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイの福音書28章19,20節)
世の終わりまで続くこの命令は、イエスさまから直接命じられた十一人の弟子たちだけでなく、この世の終わりまで生きるすべてのキリストの弟子が応じるべき命令です。
聖書では、キリストを信じたクリスチャンはみな「(キリストの)弟子」と呼ばれています。
そこで、彼の言葉を受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(使徒の働き2章41節)
この箇所では、キリストを信じて救われた人がすぐに弟子と呼ばれています。
クリスチャンとして成熟したら弟子として認められるのではなく、クリスチャンになる=キリストの弟子になる、ということです。
つまり、キリストを信じて救われた者はみな、その弟子に命じられた大宣教命令に生きる責任が与えられている、ということです。
それでは、具体的にどのように大宣教命令に生きるのでしょうか?
ここでそのことを詳しく見ることはしませんが、大宣教命令は三つの要素に分けることができます。そしてその一つは「教える」こと(Teaching)です。
「教える」という務めを"特に"果たすのは、牧師や神学者、教師など、教える役割を担う人たちでしょう。
しかし、それらの特定の役割を担った人々のみが教える務めを果たすだけでなく、すべてのキリストの弟子が程度の差はあれ「教える」務めを果たすのです。
もちろん牧師と同じような形で毎週講壇から語るわけではないでしょうが、様々な形を通して「教える」ことに取り組むことができると思います。特に、後輩のクリスチャンに対しては、多くのことを教えることができるでしょう。または、教会での交わりや聖書勉強、教会学校の働きを通して、教えることに取り組むことができるかもしれません。
教えることに取り組む上で、David Platt氏は"reprodusing the word"が大切だと説きます。説教や聖書勉強でみことばを学ぶときに、聞いて終わりではなく、その学んだことを今度は自分が誰かに語ったり教えたりするのです。
そこで、私は牧師や教師などの肩書きがあるわけではありませんが、一人のキリストの弟子として、学んだことを積極的にシェアしてみようと考え、このブログをスタートしてみました。
このブログでは、私が学んでいることをシェアするものなので、自然と色々な聖書箇所、また、トピックを扱うことになります。
今はたまたま終末論、特に携挙に関しての内容となっていますが、決してそのような内容に限定してるわけではありません。
もう少しの間、終末論、特に携挙に関する内容が続きますが、それが終わったら終末論とは異なる内容に関しても書いていきたいと願っています。
それでは今回も、最近、私が学んでいる終末論の内容をシェアさせていただきます。引き続き特に「携挙」に関する内容です。
今回はヨハネな黙示録から携挙のことを考えていきますが、その前に、携挙に関する異なる考え方についてまず触れたいと思います。
携挙には、大きく分けて三つの考え方があります。※1
① 患難期前携挙説
② 患難期中携挙説
③ 患難期後携挙説
の三つです。
この中の患難期前携挙説と患難期中携挙説では、携挙のタイミングに関する見解は異なりますが、携挙そのものの捉え方は同じだと言えるでしょう。
つまり、以下のように携挙を捉えています。
a: キリストの再臨には空中再臨(携挙)と地上再臨の二つがある。
b: 教会はキリストが空中再臨されるときに"天"に引き挙げられる。
c: 患難時代が過ぎ去った後にキリストとともに地に降りて来る。
この二つのことに関しては、患難期前携挙説に立つ人も、患難期中携挙説に立つ人も同じように理解しています。
そのような捉え方とは異なり、患難期後携挙説では次のように携挙、または、再臨を理解しています。
a: キリストの再臨は地上再臨の一回のみである。
b: 教会は患難時代を通過し、キリストの地上再臨を迎える。
c: 再臨と携挙は連続した一つの出来事である。
患難期後携挙説に立つ人は、空中再臨、つまり、教会が"天"に引き挙げられるという意味での携挙を信じていません。そうではなく、再臨はキリストが地上に降りて来られる時の一回のみであり、その時にキリストにある者が"空中"に引き挙げられるという意味で携挙を信じています。つまり、再臨と携挙は連続した一つの出来事だと理解しているのです。
このように、立場の違いよって「携挙」という言葉の意味合いが変わってくきます。
ただ、これは個人的な印象ですが、日本語で「携挙」と言うと、空中再臨、つまり「"天"に引き挙げられる」という意味で理解されることが多いと思います。
私がこのブログで「携挙」という言葉を使うときも、それは空中再臨を意味し、患難期前携挙説、また、患難期中携挙説に立つ人たちの理解、つまり「天に引き挙げられる」という意味で使うようにしています。
今回、ヨハネの黙示録3章10節を特に見ていきますが、この箇所は患難期前携挙説において携挙の根拠とされる聖書箇所です。※2
そこにはこのように書いてあります。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。(ヨハネの黙示録3章10節)
まず、なぜこの箇所が患難期前携挙説の根拠とされるのかを簡単に説明します。
その後で、この箇所を患難期前携挙説の根拠とすることの問題について触れます。
1. なぜヨハネの黙示録3章10節は患難期前携挙説の根拠とされるのか?
その理由は、とてもシンプルです。
全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
とありますが、ここに記されていることを次のように理解します。
a:「全世界に来ようとしている試練」=患難時代
b: 「あなた」= 教会時代のクリスチャン全員
c: 「試練の時には」= 試練の時"から"
つまり、患難期前携挙説に立つ人たちは「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」を「この世の終わりにおける患難時代から、あなたを守ろう」と理解します。
そして、この患難時代からの守りは、教会が"天"に引き挙げられる携挙だと理解します。それは「試練の時"には”」と訳されているギリシャ語の前置詞"ek"の理解に基づいています。この"ek"という前置詞は「区別」や「分離」を意味するため、試練の時(患難時代)からの守りは、そこから分離されることを通して、つまり、天に引き挙げられることを通して実現する、と理解するのです。
このような理解をするため、教会は患難時代を通過せずに、その前に天に引き挙げられる(携挙される)と理解しています。
それでは、次にこの理解の問題を取り上げたいと思います。
2. ヨハネの黙示録3章10節を患難期前携挙説の根拠とすることの問題について
それは、解釈上の問題です。
前述したように、患難期前携挙説に立つ人は、この箇所を次のように理解します。
a:「全世界に来ようとしている試練」=患難時代
b: 「あなた」= 教会時代のクリスチャン全員
c: 「試練の時には」= 試練の時"から"
本当にこのように解釈するのが正しいのかを考えていきます。
ここでは特に b と c の理解の問題点について触れます。
① "あなた"は、本当に教会時代のクリスチャンと理解していいのか?
と
② "試練の時には、あなたを守ろう"は、本当に試練からの脱出を意味するのか?
の二つのことを考えていきます。
まず一番目「"あなた"は本当に教会時代のクリスチャンなのか?」から考えていきましょう。
3章10節だけ抜き出すと「あなた」は一体誰のことなのか分かりません。なんとなくクリスチャンのことが言われてるような気がしますが、正確には1世紀後半に実在したフィラデルフィヤの教会を指します。なぜなら、この箇所はフィラデルフィヤの教会に対して語られた言葉です。
黙示録2,3章には七つの教会が出てきます。そして、それぞれの教会にイエスさまは手紙を書き送りますが、その中の一つがフィラデルフィヤの教会です。
3章10節は、かつて小アジアに実際に存在した「フィラデルフィヤの教会・クリスチャン」に対して語られた言葉であり、この釈義を無視して、すぐに私たちに適用してしまうならば、それは聖書の読み方として問題があると思います。
もちろん、黙示録2,3章に書かれている教会に対する手紙から、私たちに適用できることはたくさんあると思いますが、その聖書箇所の本来の意味を無視して、一足飛びに自分たちに適用するのは避けなければいけません。釈義をした後に、第一義的な意味を超え、適用として他のクリスチャンも当てはまるかを考えるべきです。
「あなた」が教会時代のクリスチャンではなくフィラデルフィヤの教会であるということは「試練の時における守り」の約束も、フィラデルフィヤの教会に対して与えられたものです。クリスチャン全般に与えられたものではありません。黙示録2,3章に出てくる七つのうちの一つの地域教会にだけ与えられたものです。
そして、そのフィラデルフィヤの教会は主に喜ばれる特別な教会だったと言えると思います。
それは、3章10節に書かれてある約束が与えられた理由からも分かります。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。(ヨハネの黙示録3章10節, 下線は筆者による)
フィラデルフィヤの教会には無条件に約束が与えられたのではなく、理由がありました。それは「わたしの忍耐について言ったことばを守った」ことです。だから、あ練の時における守りの約束が与えられたのです。
イエスさまは「あなたが"クリスチャンだから"、あなたを守ります」とここで言っているのではなく「"あなたが"忍耐深いから"、あなたを守ります」と言っているのです。
つまり、この約束が与えられた理由(忍耐深さ)を無視して、この約束はどんなクリスチャンにも適用されるとするのには無理があると思います。
フィラデルフィヤの忍耐深さ、また、キリストの言葉を守る従順さは、どれほどのものだったのでしょうか?
七つの教会に宛てられた手紙には、基本的にその教会に対する叱責の内容が出てきます。しかし、フィラデルフィヤにはその叱責が出てきません。叱責や(それに基づく)奨励はなく、賞賛と約束だけが語られているのです。
エペソやペルガモン、ティアティラなどの叱責された教会とは異なり、主の目にかなう教会、主に褒められ、喜ばれる教会だったのです。
つまり、ヨハネの黙示録3章10節の約束が語られている本来の対象は"普通"の教会・クリスチャンだったわけではなく、優れた(主に喜ばれる、良い)教会・クリスチャンでした。そして、神のことばを守り、神の名を否まず、忍耐についての教えに従順に歩んでいたからこそ、約束が与えられたのです。
そのようなフィラデルフィヤの教会に対して与えられた約束を、私のものであるとは簡単には言うことができるでしょうか?
または、教会時代のクリスチャン"全員"に与えられていると、本当に言うことができるのでしょうか?
少なくとも(叱責されるところの多い)私は、フィラデルフィヤのキリスト者たちに肩を並べる自信は全くありません...。
黙示録3章10節の試練からの守りの約束は、クリスチャン全般に適用できる一般的な約束では決してなく、"特定"の、また、"特別"なクリスチャンたちに対して与えられた約束です。
しかし、この箇所が携挙(空中再臨)の根拠とされる時「あなた」は「私たち(教会時代のクリスチャン全員)」とされ、その約束も私たちのものだとされます。そのことに私は違和感を覚えます。
「もしあなたがたがフィラデルフィヤの教会のように、忍耐深く、責められるところがないのであれば、彼らと同じようにやがえて世界を襲う大きな試練から守られます」と語るのであれば、まだその論理は分かります。ただ、"理由"を無視して、すべてのクリスチャンに適用されるとするのは軽率な解釈に思えます。
次に「"試練の時にはあなたを守ろう"は本当に"試練からの逃れ"ことを意味するのか?」を考えていきましょう。
前述したように、患難期前携挙説に立つ人たちは「試練の時には、あなたを守ろう」を「試練の時"から"、あなたを守ろうと」と理解します。試練の時が来る前に、教会は天に引き挙げられ、試練から逃れることができると考えるのです。「には」と訳されている"ek"というギリシャ語の意味(「区別、分離」)から、そのように理解します。
この"ek"という前置詞は新約聖書で何百回と出てきます。そして、この箇所以外にも試練や患難のことと関連して出てくる箇所があります。それはヨハネの福音書17章15節です。そこには、十字架につかれようとしているイエスさまの、父なる神様に対する祈りの言葉が書いてあります。13節からみてみましょう。
わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から(ek)守ってくださるようにお願いします。(ヨハネの福音書17章15節, 強調や下線、括弧書きは筆者による)
ここに出てくる「彼ら」は、御父が世から選び出してキリストに与えられた者たち、つまり、クリスチャンをのことを言っています。それは、ヨハネの福音書17章6節から分かります。
わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。(ヨハネの福音書17章6節, 下線や強調は筆者による)
その彼ら(クリスチャン)のために、イエスさまが15節で祈られる時に、「クリスチャンがこの世から取り去られるように」とは祈りませんでした。そうではなく「悪い者から守ってくださるように」と祈りました。
実際に、イエスさまは復活後、召天され、御父のもとに行き、この世にはいなくなりましたが、クリスチャンたちはこの世に残っています。それは、その前の11節に書かれている通りです。
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(同17章11節, 下線は筆者による)
イエスさまは、彼らと一緒にいることはできないのですが、彼らの守りを祈ります。「御名の中に、彼らを保ってください」「彼らを...悪い者から守ってくださるように」と。
クリスチャンはこの堕落した世に生き続けますが、その中にあって神様の守りがあるのです。
つまり、イエスさまが「悪い者から(ek)守ってくださるように」と言われたとき、その"ek"は悪い者からの完全な分離を意味したわけではないのです。
このことから、"ek"という「区別」や「分離」を意味する前置詞が使われたとしても、絶対に完全な分離を意味するとは言えないことが分かります。
そのため「試練の時には(ek)あなたを守ろう」という言葉を、"ek"が使われてるから教会は試練が訪れるこの世から完全に分離されるのだと理解するのは、適切な解釈であるとは言えません。
仮にフィラデルフィヤの教会が、エノクやエリヤのように生きたまま天に挙げられたのであれば、この"ek"は、試練からの完全な分離だと理解できます。ただ、彼らは天に挙げられたわけではありませんでした。
黙示録は1世紀の終わりに書かれたと考えられますが、(彼らにとっての)全世界を巻き込んだドミティアヌス帝のキリスト教迫害と恐怖政治の中を、彼らは生き延びました。彼らは天には挙げられずに、その試練、患難の中にあって、主の守りを経験したのです。だからフィラデルフィヤの教会は、13世紀まで存続しました。※3
ヨハネの黙示録3章10節は、本当に、教会が天に携挙されることを言っているのでしょうか?
この箇所をもとに、本当に、私たちは携挙を、また、患難時代を通らないと信じるべきなのでしょうか?
私たちは勘違い、誤解をし易いものです。ある神学的な推論のもとに、聖書箇所の意味を、その推論から導き出された結論に至らせてしまうことがあります。
そのため、誰もが自分の神学に合うようにみことばを理解してしまう危険性があることを考慮しつつ、みことばと向き合わなければいけないと思います。
患難期前携挙節は、聖書的根拠が薄いという弱点があると思いますが、もしかすると、だからこそ携挙のことを言っていると思える箇所を「そのように語ってる!」と理解してしまうのかもしれません。
私たちは聖書を理解する時に、出来るだけ"ある立場のメガネ"を外して、本当のところ著者は何を言わんとしているのか、オリジナルの読者はその箇所をどのように理解したのか、を理解する必要があります。そして、正しい解釈のプロセスを介さずに、一足飛びに、ある結論を導き出したり、自分自身に適用したりするのを避けなければいけません。
だから、クリスチャンには謙遜さ、忍耐深さ、思慮深さが求められます。
私自身も間違いを犯してしまう一人の愚かな罪人です。
キリストの力によって、また、御霊の助けによって、これからもへりくだりつつ、神のことばに向き合い、御心を知っていきたいです。
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※1: ハーベスト・タイム・ミニストリーズのリソースで、この三つの立場、そして「御怒り前携挙説」について紹介されています。
※2: 患難期中携挙説に立つ人も、ヨハネの黙示録3章10節をその根拠として信じてると思います。それは、ヨハネの黙示録に記されている鉢のさばきが下る期間を"大患難時代"とし、そのさばきの期間に入る前に携挙されると考えるためです。
※3: 中川健一氏がフィラデルフィヤの教会に関するメッセージでそのことを紹介されています。
テサロニケ人への手紙第二から「携挙」を考える
ここまでずっと「携挙(空中再臨)」のことを考えてきています。
私もそうであったように、携挙があると教えられ、その前提のもとに聖書を読むときに、携挙のことが語られているように読める箇所があります。
前回と前々回の記事で紹介したように、その代表的な箇所の一つは、テサロニケ人への手紙第一の4章後半です。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(16,17節)
ここには、クリスチャンたちが"天(heaven)"に引き上げられるとは書かれていません。そうではなく、”空中(sky)"に引き上げられると書いてあります。
なので、この箇所が「クリスチャンが"天"に携挙される」ことを直接的に教えているとするには無理があります。しかし、この箇所は携挙の聖書的根拠とされる代表的な箇所です。また、この箇所をもとに携挙を信じているクリスチャンが少なからずいると思います。
クリスチャンは、ベレヤの信徒のように、教えられたことを鵜呑みにするのではなく、教えられた解釈は正しいものなのか、それは著者がそのテキストから本当に伝えたいことなのかを自分自身で探究すべきです。
ここ(ベレヤ)のユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べた。(使徒の働き17章11節, 新共同訳)
私たちには、ベレヤの信徒のようなみことばに対する聖なる素直さと聖なる熱心さが必要です。教師や教えをさばくような思いではなく、開かれた思いをもってみことばの教えに耳を傾け、真摯にみことばを学びます。そして、教えられたことを鵜呑みにせず、自分自身でも聖書を調べ、その聖句の意味を吟味します("聖なる懐疑心"が必要だと言えるでしょうか)。
携挙メガネを取り、「教会は患難期を通らずに天に携挙される」という教えが本当にそのとおりかどうかを考えるときに、どんなものが見えてくるでしょうか?
本当に、携挙は単なる神学的な推論、仮定なのではなく、みことばが明確に語っている真理なのでしょうか?
終末論は様々な考えがあり、簡単には終末に関する神のご計画をみことばから理解することはできません。なので、はっきりとみことばが語ってるという確信がない限り、何が正しくて、何が間違ってるかを性急に判断すべきではありません。そのため、学ぶ側には謙遜さが必要です。
ちなみに私は、教会が天に携挙されると信じてはいませんが、"絶対"に教会は天に携挙されないとも考えていません。
多くの人がそう考えるように、私もその可能性はあると考えています。しかし、そのことを聖書にクリアに見ることが今のところできません。むしろ、そうでない根拠の方がクリアに見れるので、携挙はない"だろう"と今の時点では考えています。
いずれにしろ、ある前提をもってみことばを理解するのではなく、みことばが教えていることを純粋に求めていきたいです。
さて、前置きが長くなりましたが、今回はテサロニケ人への手紙第二の前半を見ながら、パウロの終末論がどのようなものであったのかを理解したいと思います。※1
パウロは「主の日」がどのように来るかを説明しています。
霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。...その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。(2章2,3,8,9節)
パウロは、テサロニケ人への手紙第一でも「主の日」について説明しました。
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。(テサロニケ人への手紙第一5章1節)
どちらの箇所でも「主の日」は、キリストが再臨される前の世の終わりの時を意味しています。その時、この世は患難の時を迎えます。
テサロニケ教会の人々は、「主の日がすでに来た」という言葉を耳にしていました。そして、テサロニケの教会はその言葉に惑わされ、落ち着きを失っていました。
霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。(テサロニケ人への手紙第二2章2節)
パウロは、そんなテサロニケの人々に「だまされないようにしなさい」と語ります。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。(2章3節)
ここでだまされてはいけない理由として語られているのは「不法の人」と呼ばれる、ある一人の人物についてです。
「不法の人が現れなければ、主の日も来ない」と、パウロは言っています。
もし患難期前携挙説を信じているクリスチャンに「主の日はすでに来ました!」と言えば、彼らこう言うでしょう。「いや主の日はまだ来ていません。なぜなら、私たち(教会)が天に挙げられていないからです」と。
パウロも携挙を信じていたならば、患難期前携挙説に立つ人たちと同じようにこう言ったはずです。「"主の日がすでに来た"と言われても、あなたがたは心を騒がせる必要はありません。主の日はまだ来ていないからです。あなたがたはまだここにいて、携挙はまだ来ていないのですから」と。
しかし、パウロはそのようには言いませんでした。
主の日がまだ来てないことの根拠として、パウロは「教会の携挙」ではなく「不法の人」のことを語ります。
パウロが患難期前携挙を考えていなかったように、テサロニケの人々も考えていませんでした。
もしテサロニケの人々が「主の日が来る前に教会は携挙される」と信じていたのだとしたら(パウロからテサロニケ人への手紙第一4章16,17節で患難期前の携挙を教えられていたのだとしたら)、彼らは携挙が来る前に主の日が到来する事はないと知っていました。そして「主の日がすでに来た」と言われても騙されるはずがありませんでした。
しかし、実際にはテサロニケの人々は困惑したのです。
このことから、彼らは患難期前携挙説に立つクリスチャンではなかったと言えると思います(だからと言って、患難期"中"に携挙が起こると信じていたということを言いたいわけではありません)。
パウロは「不法の人が来てから主の日が来る」ことを語った後、続けて不法の人に関して詳しく語ります。
不法の人は、
① すべて神と呼ばれるもの、また、礼拝されるものに反抗する。
② それらの上に自分を高く上げる。
③ 神の宮の中に座を設ける。
④ 自分こそ神であると宣言する。
⑤ 定められた時に現れる。
⑥ 主の御口の息、来臨の輝きをもって殺され、滅ぼされる。
⑦ サタンの働きによって到来する。
⑧ あらゆる偽りの力、印、不思議を行う。
⑨ 滅びる人たちに対してあらゆる悪の欺きを行う。
パウロは、不法の人がどのような者で、どのようなことをし、どのようなことを語り、その背後にどんな働きがあるのかテサロニケの人々に教えました。
どうしてここまで詳しく語ったのでしょうか?
仮に教会が不法の人が到来する前に(患難期前に)天に携挙されるのであれば、この情報はテサロニケのクリスチャンたちにとってどのような意味を持ったでしょうか?
彼らが見ないであろう者の正体を、パウロが詳しく語る必要はあったでしょうか? もし患難期前に携挙されるのであれば、不法の人の存在は彼らには直接関係のないことです。
しかしパウロは、主の日の到来のしるしとなる"不法の人"がどのような者で、その者を見抜くことができるような情報を前もってテサロニケの人々に教えたのです。
ここにパウロのどのような意図があるでしょうか?
教会は携挙されることなく患難期を迎え、不法の人の到来を見ることになる。そして、パウロが伝えてくれた情報をもとに、クリスチャンは誰が不法の人であるのかを特定し、主の日が来たことを判断します。そのために、パウロは不法の人について詳しく教えたのでしょう。
パウロが教えていることから理解できる彼の終末論は、少なくとも患難期前携挙説ではないと言えるのではないでしょうか。
また、ここで語られている内容には、患難期"中"に携挙が起こることも触れられていません。パウロが書いた手紙の中で、おそらく最も主の日について詳しく説明されてる中で、携挙のことは出てこないのです。もし彼が再臨は二回あり、クリスチャンは患難期中に携挙されると理解してたのであれば、落ち着きを失い、心を騒がせてるテサロニケの人々に対して、その携挙の恵み、希望を語ったのではないかと思います。
確かに、再臨は二回ある、つまり、携挙(空中再臨)がある、と論理立てて神学的に教えられると、それが正しいかのように聞こえます。
しかし私たちは、ベレヤの信徒のように、教えられたことを自分自身でしっかりと吟味し、みことばがはっきりと教えていることに堅く立ち、それを守るべきです。
みことばが教えている終末論を理解する時に、私たちはますます主の再臨を待ち望んで、喜びをもってこの地上で歩みを進めるようになるでしょう。
そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。(テサロニケ人への手紙第二2章15節)
※1: この記事の内容は、John Piper氏の説教を参考にしています。
テサロニケ人への手紙第一から「携挙」を考える ⑵
前回の記事では、テサロニケ人への手紙第一4章17節の「会う(ギリシャ語で"apantēsis")」という言葉が、原語でどのように他の聖書箇所で使われているのかを確認しました。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(テサロニケ人への手紙第一4章16,17節, 下線は筆者による)
John Piper氏が説明するように、この箇所には空中で主と会った後にどうなったのかは記されていませんが、"apantēsis"という言葉の聖書での使用例から「空中で主と会った後に"地上に戻る"」と考えるのが適切であると考えられます。
ちなみに、このapantēsisというギリシャ語は、ギリシャ語訳の七十人訳聖書(LXX)では、ヨナタンの息子メフィボシェテがダビデ王を出迎えるときに使われています。
彼が王を迎えにエルサレムから来たとき、王は彼に言った。「メフィボシェテよ。あなたはなぜ、私といっしょに来なかったのか。」(サムエル記第二19章25節)
メフィボシェテが自分の王を出迎えたように、古代において、王や皇帝、将軍や他国の高官などの重要人物を迎える時には、"出"迎えることが尊敬を表すことの習わしだったそうです。
例えば、ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、アグリッパ1世(使徒の働き12章に出てくるヘロデ王)がローマ総督を迎えるために、町から1.5kmほど離れたところまで出て行って敬意を表したことを記録しています。※1
ローマ帝国においては、将軍と兵士が凱旋する際、民は彼らを出迎えました。凱旋は次のようなプロセスを踏みました。
① 軍隊は街に軍事的遠征から戻る時、すぐに入場するのではなく、街から少し離れたところで一度待機しました。そして、メッセンジャーを街に遣わし、元老院に勝利の報告をします。そしてその報告を受けた元老院は凱旋式の準備をします。
② その後、待機していた凱旋将軍と兵士たちが街に向けて行進を始めますが、その時にラッパを吹き鳴らすのです。
③ 街の人々は、そのラッパの音を聞いて「将軍と軍隊がもうすぐやって戻って来る!」ことを知るのです。
④ その時、ローマ市民は街の外に出て行き、凱旋将軍と兵士たちを迎えます。つまり、将軍と兵士と市民が一緒に街に入って行くのです。
教会が空中に引き挙げられるのが王なるキリストを出迎えるためなのだとしたら、それはこのイメージとまさに合致します。※2
聖書の中にも、当時のそのような習慣を見ることができます。
ヨハネの福音書12章13節には、イエスさまがエルサレムに入場される際に、人々が「しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った」(下線は筆者による)とあります。イスラエルの王が来られるとき、その民は王を迎えるために出て行きました。
それではイエス・キリストが王の王としてこの地に再び来られるとき、その民である私たちクリスチャンはキリストを出迎えるのでしょうか?
パウロ、また、彼の教えを直接受けたクリスチャンは、そのことをどのように考えていたのでしょうか?
今回も、テサロニケ人への手紙第一4章から「再臨」や「携挙」のことを考えていきたいと思います。
そもそも、なぜパウロは4章の後半でクリスチャンが空中に引き挙げられることに関して語ったのでしょうか?
それは決して、テサロニケのクリスチャンたちが「携挙(空中再臨)」に関して疑問に思い、パウロに質問したからではありません。
それは、彼らが「眠った人々」のことを心配していたからです。
その冒頭にはこのように書いてあります。
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。(テサロニケ人への手紙第一 4章13節, 下線と強調は筆者による)
眠った人々とは、どんな人たちのことを表すでしょうか?
それは「死んだ人々」のことです。※3
パウロはやがてよみがえる人々、つまり、キリストを信じて死んだ人々を「眠った人々」と呼んでいるのです。
あえて「眠る」という言葉を使うことで、キリストにある死者が、キリストと同じように、やがて新しい身体とともに目覚め、復活することを教えようとしているのです。
だからパウロはその次の節で、キリストの復活を語ります
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(テサロニケ人への手紙第一 4章14節)
キリストが復活したことを信じる信仰に基づいて、私たちはキリストにある死者も復活することを信じます。そして神は、やがてキリストと一緒に眠った人々を連れて来られるのです。
ここからさらにパウロは、眠った人々がどのように主の再臨の際に復活の恵みに預かるのかを説明します。
それは「眠った人々」についての理解不足から生まれる、テサロニケの人たちの心配を取り除き、彼らに希望と慰めを与えるためです。
なぜなら、テサロニケの人々は、眠った人々のことで悲しみに沈みそうになっていたからです。
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。(テサロニケ人への手紙第一 4章13節, 下線は筆者による)
なぜ彼らは悲しみに沈みそうになっていたのでしょうか?
それは、眠った人々が主が再臨される時にどうなるのか分からなかったからです。パウロから再臨についての教えを受けていましたが、死んでしまった者がどうなるのかまでは知らなかったのです。
パウロがテサロニケに滞在したのは数週間だけだったと考えられます。それは、パウロの伝道旅行について記録している使徒の働きに「三回の安息日にわたって」テサロニケでユダヤ人たちと論じ合い、その後、捕まえられそうになってベレヤに行ったと記されているからです。
彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。(使徒の働き17章1,2節, 下線と強調は筆者による)
短い滞在期間の中で、パウロはキリストの再臨について説明していました。終末のことを彼らに語っていたのです。
ただ、もちろん十分な時間がないので、テサロニケのクリスチャンたちは再臨についてよく分かっていたわけではありませんでした。
彼らが分からなかったのは、再臨が来る前に死んでしまった人がどうなるかです。
彼らは生きてる自分たちに関して心配していたのではありません。主の再臨時に生きてるクリスチャンはに復活の恵みに確かに預かることができると知っていたのです。
おそらくそれは、パウロが"自分が生きてる時に再臨が来る"かのように語るからだと思います。
パウロが自分自身は生きたキリストの再臨を経験すると考えていたであろうことは、以下の箇所から分かります。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。(テサロニケ人への手紙第一4章15節)
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(テサロニケ人への手紙第一4章17節a)
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(コリント人への手紙第一15章51,52節)
パウロ自身が再臨の時に生き残っていて、自分たちは(よみがえるのではなく)変えられると考えていたように、彼の教えを受けたテサロニケの人々も再臨が自分たちが生きてる時に来ると考えていたのだと思います。そして、生きてる自分たちが再臨時に復活の恵みを受けることはよく分かっていたのです。
パウロから再臨を教えられた彼らは、再臨を待ち望み、そのキリストに対する望みによって苦難の中でも忍耐をもって歩んでいました。
私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(テサロニケ人への手紙第一 1章3節, 強調は筆者による)
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。(テサロニケ人への手紙第一 1章6節, 強調は筆者による)
しかしパウロが去ってから、そのような彼らの中に死んでしまう者たちが出てきたのです。つまり、主の再臨を生きては迎えずに、その前に死んでしまったのです。
テサロニケの人々が自分たちが生きてる間に、主の再臨を迎えるだろうと考えていた彼らにとっては大問題です!
パウロは「"生きてる"私たちがキリストの再臨の時に復活の恵みに預かり、御国が到来し、キリストと永遠に共にいるようになる」と話していたけれども、再臨前に死んでしまった場合はどうなるのだろう?
もしかしたら、彼らは再臨の場には居合わせず、復活の恵みにも預からないのではないか...。そんな不安が彼らの胸を襲い、信仰の兄弟姉妹に酷く困惑していたのだと思います。
そしてテサロニケの人々が、理解不足から来る悲しみに沈みそうになっているのを知ったパウロは、眠った人々が再臨時にどうなるのかを詳しく話すのです。
パウロが語ることのフォーカスは、再臨の時に「"生きてる"者たちがどうなるのか」ではなく「"眠った人々"がどうなるのか」です。キリストにある死者がよみがえることをはっきりとパウロは伝えたかったのです。
多くの人が、パウロはこの箇所で教会が天に挙げられること、つまり携挙のことを教えていると理解しますが、文脈から考えて、パウロが「携挙」という新しい?真理を教えたという風に考えることはできないでしょう。
死んでしまった人たちは再臨を逃すかもしれない、と心配していたテサロニケの人々に対し、パウロは「あなたがたが死んだ人々に優先する」ようなことはないと語ります。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。(4章15節, 下線は筆者による)
そして続けて、眠った人々が具体的にどのようになるのかを明らかにします。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(4章16, 17節)
この教えを受けたテサロニケの人々は、どれほど希望と慰めを受けたでしょうか!
愛に生きていたテサロニケの教会の人たちだからこそ、自分たちの兄弟姉妹が死んでしまったときに、悲しみ、その人たちが復活の恵みに預かれるのかどうかを心配して他のでしょう。
兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。(4章9節)
そんな愛する兄弟姉妹も、再臨の栄光と恵みに預かることができるのだから、パウロはお互いに慰め合いなさいと語ります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(4章18節)
テサロニケの教会の人々が慰め合うことができるのは「彼らが携挙の恵みに預かり、患難時代を通らなくて良いからだ」という話を聞いたことがありますが、本当にそうでしょうか?
ここでパウロが語ろうとしていることを通して考えると明らかに間違っていると思います。
その希望と慰めは、パウロが「携挙」について語ったから来るものではありません。
愛する眠った人がキリストの再臨時に復活することができるから、そして、みんなでいっしょに永遠に主とともにいることができる、慰め合うことができたのです。
私にも、すでに召された(眠った)人々がいますが、彼ら彼女たちと共に、主の再臨を迎えることができるのは、何という祝福でしょうか。楽しみで楽しみで仕方ありません。再臨される栄光の主を心から待ち望み、褒め称え、今日も明日も生きていきたいです。
※1: こちらの記事で紹介されています。
※2: R. C. Sproul氏が、ローマ帝国における凱旋式と、キリストの再臨時に教会が空中に引き挙げられることの関連性をこちらの動画で説明しています。
※3: ヨハネの福音書11章で、イエスさまは死んだラザロのことを「眠って」いると言います。
〜2020年6月24日に編集〜