Reproduce the Word

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テサロニケ人への手紙第一から「携挙」を考える ⑴

私がクリスチャンになったのは22歳の時でした。

 

右も左も分からない中で、牧師や周りのクリスチャンの先輩たちから携挙のことを教えられ、それを信じるようになりました。

 

第一テサロニケ4章後半から携挙を教えられた時、そのことをすぐに受け入れ、疑いもしませんでした。

 

聖書解釈は他人の考えを受け売りするのではなく、自分自身で本当にその通りかどうかを調べる重要性を知った後も、携挙のことは聖書が語っていることだと信じていました。

 

第一テサロニケ4章だけでなく、ヨハネ福音書14章やヨハネの黙示録3章10節など、それが携挙のことを示していると言われたら、そのまま信じていました。

 

ただ、携挙のことを信じていても疑問が残りました。

 

例えば、マタイの福音書24章で、イエスさまが終末のことを語る際に携挙のことが出てこないのです。そればかりか、患難時代が語られる文脈の中で、キリストの弟子たちが迫害を受けることが語られています(マタイ24:9)。「携挙があれば患難期は通らないはずなのになぜだろう」と考えていました。

 

そんな私が「もしかしたら携挙はないのかもしれない」と考えるようになったなったのは、John Piper氏の話を聞いてからです。

 

「Desiring God」というミニストリーを率いる彼が、そのミニストリーで人気のある番組「Ask Pastor John」で、携挙に関する自身の見解を示したのです。携挙を信じていない彼は、その理由を短い時間枠の中で(10分くらい?)簡潔に述べたのです。

 

www.desiringgod.org

 

これまでたくさんの携挙に関する教えを聞いてきましたが(時間にしたらどれぐらいでしょうか!)、その短い話を聞いただけで、自分のこれまで信じてきたものは明確な聖書的根拠に欠けるものだったと思わされました。

 

John Piper氏がAsk Pastor Johnで語ったことの内容を紹介しつつ、テサロニケ人への手紙第一4章16,17節から携挙のことを考えてみたいと思います。

 

彼は「私はキリストの再臨は一度だけだと考えています」と述べた上で、その理由を話しました。ちなみに彼は、携挙を信じる、患難期前携挙説に立つ家族、また、教会で育ったそうです。

 

彼はいくつかの聖書箇所を引き合いに出して話をしましたが、その中の一つはテサロニケ人への手紙第一 4章16,17節でした。

 

主は,号令と,御使いのかしらの声と,神のラッパの響きのうちに,ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が,まず初めによみがえり,次に,生き残っている私たちが,たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ,空中で主と会うのです。このようにして,私たちは,いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4章16,17節)

 

彼は、この箇所をキリストの地上再臨時に起こることだと理解していると言います。

 

それは、この箇所に出てくる「会う」という言葉の理解に基づいています。

 

この言葉(ギリシャ語では"apantēsis")は、新約聖書の中で、この箇所の他に二回登場します(マタイ25:6と使徒28:15)。

 

どちらの箇所でも、ある人のことを迎えに出るグループの人たちがいます。そして、そのグループの人たちはある人に会った後、その人と一緒に自分たちの場所に戻ります

 

つまりそれらの箇所から分かることは、この「会う」という言葉は「出迎えてから元の場所に戻る」という意味で使われる言葉なのです。

 

第一テサロニケ4章17節には、すべてのキリストにある者が空中で主と会った後に、天に昇るのか、それとも、地に下るのかは書いてありません。

 

しかし、この「会う」という言葉の意味合いに従って考えるならば、地上に降りて来たと考えるのが自然です。

 

つまり、この出来事は、キリストが地上に再臨されることとは別のことを語っているのではなく、地上再臨を別な描写をもとに語っているということになります。

 

すべてのキリストにある者たちは、彼らの主が地上に降りて来る時にキリストを出迎え、キリストとともにこの地に降りて来ます。そして、キリストはご自身を信じる者には安息を与え、拒んだ者にはさばきを与えます。

 

私がJohn Piper氏の話を聞いたとき、自分自身の中では当たり前だった「携挙」はその代表的な箇所である第一テサロニケ4章の中に、はっきりと見出せるものではなかったということにショックを受けました。つまり、私は、ある神学的前提(患難期前携挙説)を持ってこの箇所を読み、そこに「携挙」という一つの神学的理論を読み込んでいたのです。

 

改めて、みことばは慎重に読まなければいけないものだと思わされました。人は何事も先入観をもって見てしまうものだからこそ、注意が必要です。

 

第一テサロニケ4章で語られていることが、主が地上再臨されるときの聖徒たちの歓迎のことだと考えるようになって、ますます地上再臨が楽しみになってきました。その時にすべてのクリスチャンが朽ちない体を与えられ、大きな喜びをもって偉大な王を出迎えるのです。なんと待ち遠しい日でしょうか。

携挙はあるのか?

ここ最近、ずっと終末論を学んでいます。

 

それは、バイブルスタディヨハネの黙示録を学んでいるからです。

 

終末論は聖書を信じるクリスチャンの中にも、様々な考えがあるため、注意しながら学ぶ必要があり、学び手には謙遜さが必要です。そして、終末論は福音の根幹的な要素に関わることではないため、その意見の食い違いによってさばき合ったり、分裂したりすることがないようにしなければなりません

 

クリスチャンになってからずっと、私は「携挙」を信じてきました。

 

携挙とは、イエス・キリストが昇天して以降の教会時代に救われたクリスチャンがみな、生きてる者も死んだ者も、キリストが天から戻って来られるときに空中に引き上げられ、雲の中で主と会い、その後、主と一緒に天に昇るという神学理論です。

 

携挙のことを言ってるとされる代表的な聖書箇所は、第一テサロニケ人への手紙4章16,17節です。

 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいることになります。(2テサロニケ4:16,17) 

 

この箇所には、すべてのキリストにある者が「空中で主と会う」と書かれています。その後、天に昇るとは書かれていませんが、携挙を信じる人たちは、空中で主と会った後に天に昇ると考えます。そして再臨は二度あると理解します。

 

⑴ 空中再臨(携挙)

⑵ 地上再臨(※1)

 

私もずっと再臨は二度あると理解してきました。つまり、携挙があると信じ、神学的な立場で言えば千年王国前再臨説」また「患難期前携挙説」に立ってきました。

 

クリスチャンになってから私の周りにいた牧師やクリスチャンのほとんどが、この両者の立場に立つ人たちでした。なので、私にとってこれらの考え方が普通であり、他の見方は間違ってると思っていました。

 

しかし、ここ最近、改めて終末論を学び直し、自分とは異なる立場の人たちの意見、理解にも耳を傾ける中で、今までの自分の立場のある部分に疑問を覚えるようになり、またある部分についてはより深く確信を抱くようになりました。特に疑問を抱くようになったのは「携挙」に関してです。

 

みことばに堅く立つ牧師や神学者の中でも、多くの人たちが携挙を信じていない人たちがいます。そして、そこには明確な聖書的理由があります。

 

その人たちの意見に耳を傾けることは、これまでずっと自分が信じてきたことが揺るがされことでもあり、携挙に希望を抱いてきた私にとっては決して心地良いものではありませんでした。むしろ、その説明を聞けば聞くほど戸惑い、ショックを受けました。携挙に関する自分の信仰が崩れていくような感覚を覚えました。

 

もちろん今後、再度携挙を信じるようになることはあるかもしれませんが、これまで携挙を信じる牧師の教えを何度も聞き、神学校の講義でも携挙に関して学びもしたので、そう簡単には「携挙の問題」は解決しないと思います。異なる終末論の立場に立つ人たちの意見を聞く際、そう簡単には自分の考えが覆されることはないだろうと最初は考えていました。

 

どうして携挙がないと考えられるか、そのことを今後書いていきたいと思います。

 

"携挙がある"という神学的な前提に立ったときに、携挙のことを教えているとされる(または示唆していると思われる)第一テサロニケの4章後半ヨハネ福音書14章前半第一コリント15章後半ヨハネの黙示録全体(特に3章) は、携挙のことを語っているように見えます。

 

しかし、「携挙メガネ」を外し、本当のところ、著者はそこで何を語っているのか、また、読者はそこから何を受け取ったのかを考えるときに、私はそれらの箇所が携挙のことを語ってるとは信じることはできませんでした。

 

マタイの福音書24章前半第二テサロニケ2章前半の内容をよく理解するならば、イエスさまの頭の中にも、パウロの頭の中にも、「携挙」というものは存在しなかっただろうと私は考えます

 

調べれば調べるほど複雑な思いにもなりましたが、「携挙」がないと考えるようになってから、今までは複雑な理解によって理解しようとしてた箇所が、単純にスッと理解できるようになりました。また、異なるそれぞれの箇所の意味がつながるようになり、また、聖書全体のメッセージがはっきりと浮かび上がるようにもなりました。

 

再臨は一度だけ起こると考えるようになってから、今まで以上に(地上)再臨に対する希望を抱くようになりました。人生の焦点、方向性が再臨に向かうようになったことをこれまで以上に感じます。「御国が来ますように」という祈りも、心から祈れるようになりました。

 

最初は戸惑い、大きなショックを受けましたが、今では不思議な平安が心の中にあります。

 

おそらく、クリスチャンになってからここまで大きな自分の教理的な変化を体験したことはないと思います。

 

携挙がない、教会が患難時代を通過するだろうというのは、ショックなことです。しかし、イエスさまはこのように語っています。

 

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ福音書17章15節)

 

神様は私たちを試練の中にあったとしても守ってくださいます。そして苦難の中で、神様は私たちに主から来る喜びや平安を与えてくださいます。

 

※1: 地上再臨とは、千年王国後に訪れるキリストの再臨のこと。